今日は一日丸ごと金魚の壁画。感想としては、えっ・・・随分進んだなぁなのね。そうね、丸々一日ってこの作品にあったかな?って思うと、無かったような気がするのね・・・こう言う事って、あるって言えばあるんだけれど、まずこんな大きさの作品って久しぶりなのね。つまり手慣れない。
だから、場合に寄っては作品の大きさに飲まれる事もあるのね。あー大きいな・・・って下地を見た時にね。次に下絵を写すって時に、当然全て描いてる訳が無いから、今回の場合なら金魚の配置の絵と、大体の雰囲気のラインのみ。それを描き写すにしても、大き過ぎて半分にしてやるのね。
その時に、どんな気持ちになるか?なのね。大きさに飲まれれば、まだ終わらないし・・たったこれだけとか、果てしなさの上乗せな気分とか、場合に寄っては、勝手に写し終わると思い込んでいて、終わらない事でテンションを下げるなんて事があったりする。まぁ流石に後者は無いけどね。
まぁどちらにも該当しなかったし、そもそもそこまで来るのに、下地を見つけるのに色んな人に相談して、遠くまで買いに行ったりして、そっちの方が大変だった事もあって、ただ写すなんて行為はむしろいつも通りの予定調和。だからそこまで気持ちに変化は無いと思うのね。
その後、いよいよ張る事になると、今あるタイルで始めたから、特にあれこれ注文をした訳じゃ無いから、そこも悩み事も無くスタート。つまり下地の問題の頃が一番大変だった事になるのね。だからすんなりスタートしたんだけれど、あれこれとやる事があって、合間合間の制作になったのね。
とは言え、そこそこな時間はやっていたから、やっぱり大作って果てしないな・・・って気分にはなりつつあったと思うが、正直、それほどでも無い気がしていたのね。まず金魚のモチーフは何度もやっているし、近々では、katsuの作品では無いけれど、陸前高田もやっていたりして・・・。
大きさに飲まれていないんだろうね。だから普通なんだろうね。そんな中、丸々1日やったって結果に満足したんだろうね、きっと。そもそも俺の丸々1日って、恐らく12・3時間はやるだろうから、ちょっとなんてのは、3時間程度な感覚なのね。そりゃ進んで当然なのね。でも実際こうして結果を
見ると、おーって気分になった。本当はこんなペースなのかと。まぁこれを見ても、おーとはなっても、性格上、調子には乗らないし、気分は良くなっても、これだけの大きさの中では、つまづく事はあるだろうし、だからその時の貯金が出来た位の感覚なのね。それと経験としての自信。
これからもウロコやヒレは何度も出て来る。それをこの程度の時間は掛かるし、この程度の仕上がりにはなるんだな・・・って思える気持ちが自信になる。つまりそんな事で勘違いするような削られ方にはならなくなる。だからそれ以外の事の時に削られる事があるんだろうな・・・。って。
って事は、まだ見ぬ何か?って何か。恐らくまだ触れていないバックの余白だろうが、この今の気分の余裕が、一つ進展させてくれて、四隅に稲穂でラインでも入れて・・・こんな構想が出ると、後は下絵を描ければ、また1つ進める。こうして余白を無くして行くって考えれば、全ての絵を描いて、
スタートなんか出来なくても、その内に終れるのね。大作をやっている人なら、先生も私と同じなんだ・・・って思えると思うんだけど。俺は画家さんじゃ無いから、こんな大きな絵をスラスラ描ける実力は無いのね。ただそれならその人達とは違う方法でやれば良いだけなのね。
こんな事は良くある話で、今ならパソコンさえ出来れば、楽器もペン入れもせずに、弾けたり、描けたり出来る。この考え方と一緒で、トレーシングペーパーを使ったりして、重ねた絵を描いたり、逆向きにして左右対称の絵を描いたり・・・それなら俺にも出来るのね。
そもそも出来る側にいると、一歩目に悩まずに済む。そこで2歩目にすんなり行ける人は、恐らく痛み無く、5・6歩進むのね。こんな人もいれば、最初の1歩のハードルが高い・・・そんな人もいる。昔からぶきっちょで・・・とか、やりたい気持ちはあっても、人と比べられる意識から、緊張したり
出来栄えばかり気にして、楽しむって事から大きく離れてしまったり・・・ただそんな人でも、その1歩目をクリアーしてしまうと・・・それはまずここに来たみたいに、何処かで習う為に行った・・・って行動を起こした。これで何もしないで傷付かなくて済んだでは無く、失敗するかも知れないって事も踏まえた覚悟をした事になるのね。
当然、お金は払って習うんだから・・・って最後まで頑張れば、体験って言うのは、誰もがクリアー出来るように、先生が考えてくれているだろうから、何とかでも終れるはずなのね。そこでどう感じるか?なのね。もっと・・・って思うか、もう良いわって思うか?それが先生の技量なんてもんになる。
って話を広げ過ぎちゃったから戻すと、何でも反復練習が道具の使い方を上手くするものなのね。だからある程度の時間を過ぎると、道具や材料に手慣れて来るのね。所がまたここに常に2つ道があって、どっち?って選択をする事になるのね。やるとやらないみたいにね。
常にやらない・・・を選択すれば、何も傷付かずに済む。予定調和の決定版になる。それが安心安全ならね。所が意を決して、やるを選択したとする。すると、上手いと下手とか、選択肢があるとするなら、誰でも上手いを取ると思うのね。でもそれが、個人レッスンなら比べられる人はいないが、
カルチャーのような場合、比べられる相手がいるし、もっと言えば、同じ教材だから、比較が誰にでも出来るのね。残酷だけど。だから本人も判ってしまうのね。思うようには行かなかった・・・って人と、器用な人なら、体験では物足らないって事もあったりする。大きな差だね。
たださっきのパソコンの話と一緒で、出来ない人は、折角出来ないのね。変な日本語なんだけれど、折角を付けて文章を作ると、前向きになるのね。まぁ伸びしろがある事になる。折角雨なんだから・・・となると、雨の時しか出来ない事を探す努力や想像をする事になるのね。
つまり出来ない側になったら、常にこうして出来る人達の道へ付いて行こうとせずに、出来ないなら出来ないなりに、どうしたら良いか?と考えると、割と気持ちが楽になるのね。ただこれには、どーしてもやりたいって気持ちが無いと、千尋にならないのね。ここで働かせて下さいぃぃ・・・。
あれね。でもあれは、ハクに言わされたのね。きっかけは・・・ただその後の努力は千尋なのね。つまり千と千尋の神隠しのように、先生って言うのは、そそのかしが仕事だったりするのね。だから、両親を救いたい・・・どーしても・・・って一緒なのね。それなら、働かせて下さいって何があっても、
言うんだよ・・・って話で、こんなのを作りたい・・・って思えば、いや思い続ければ、こっちもあぁすれば、こうすれば・・・って理想に近づくアイデアを考えるのね。これが先生katsuのスタイルとするなら、自分自身の時も、同じで何がしたいのか?って言う事があれば、もう一人の先生の
katsuって人がアシストしてくれるんだろうが、一体何がしたいのかな?って作家katsuって人が葛藤している感じなのね。所がモザイクが始まると、作家katsuは一人で出来るから、先生katsuは休めたりする。気楽って言うのは、こんな事だったりもする。一人休めるからね。
恐らく、次に先生katsuが必要になるのは、稲穂が終わった頃だろうな・・・。