今日は朝から夕方まで、丸々闘牛士の背中のリピーターさん教室。そうね、こんな場合、特訓にならないようにするのが大事で、モザイクの話ばかりにならないようにするなんて事が初歩。
それと一体、何がこの方が大事な事なのか?って言う聞き取りみたいな感覚が必要で、個人レッスンって、普通の日常会話の中から、いかにその人らしい感覚を見つけるか?って言うのが、
こっちの役目だったりもするのね。逆にテクニックやセンスなんてもんは、ん・・・そうね、例えば、鉛筆を持ったばかりの子に、こう書くと上手く見えるよ・・・って最初から必要?とか、
バットを振った事も無い子に、こうこうこうする・・・って、何も見ていないのに、誰もかれもに同じ指導からスタートって・・・それって個人レッスンじゃ無いじゃん。だからまず基本動作を
教えたら、どんな事を考えて、どんな事をするのか?見たいのね。その後に、ちょっとだけそれの是正を口出しして、それとの差を感じて貰う。そこに差をどの程度感じるか?でまた是正・・・
その人の味付けを一緒に探す・・・こんな事の繰り返しなのね。そうね、これだけ切れるようになると、隙間みたいに狙って1枚入れるって場所は、1色を選んで入れるだけ。そう、だけなのね。
だけ・・・って言うのが安心して見ていられる事で、これが2個以上のパーツになると、同じ色に
見えるなら、問題は形のみになるが、色が違って見えるようだと、2色以上選ばないとならない。
そこに形の悩みが加わる。どっちの色が多めか?・・・ってね。そこを良く見極める。それがどっちって2つに1つなら判りやすいが、3色となると形が一緒では、色の強いものが影響が強くなる。
しかも1cmの大きさ。クラッシュを作ろうとして切り過ぎると、イビツなお団子みたいになって、みんな同じ形に見えて来るし、切らな過ぎると、ゴツゴツしたり、四角いものばかりになるのね。
丁度良いって言うのは、しょっぱくも無く、甘くも無い、甘じょっぱいって感じなのね。でもそう伝えると、しょっぱいのが好きな人もいるし、甘いのが好きな人もいる。そんな事はまた良いが、
作っている本人が、どうしたいか?の意識が薄い場合・・・つまり自覚無く進んでしまうと、こんなはずじゃ・・・とか、何か変・・・なんて事になる。本来作り手が意識をすれば、上手いか
下手かは別にして、方向性は合っている事になるはずだが、暫定・・・つまり何と無く始めてしまうと、何と無く進むのだから、何と無くのパーツに何と無く合わせる事になるのね。
つまり1手目が全てを握っている・・・そこにまた合わせる2手目。みたいになると考えると、多少間違ったパーツがあったとしても、方向性は変わらないが、1手目が何と無くの場合、そこが
違えば、しょっぱくしたく無いのに、塩をばぁーっと入れちゃった感じになるし、しょっぱくしたいと思っていても、細かく細かくしといて、沢山入れたからって、大きめ甘いの1つドーンって、
入れれば、しょっぱさは簡単に消えるみたいな・・・最初の1手は方向性決めみたいなもんで、そこから波及して行く感覚なんだけれど、そもそも狙って切れないと、こう切りたいのにこう切れないもどかしさになるのね。
だから、まず切れる練習になる。そこである程度切れるようになったら、感覚って言う、感じる事が大事で、どう見えるか?となるんだけれど、感じ方は人それぞれなのね。だからそれを日常の
会話の中から拾い集めるのね。何をどう感じる人なのか?・・・ってね。それをみんな同じって、昭和か軍隊か?って話で、多様性なんて言ったら、もはや個人レッスンなんてみんな違う訳で・・
それを何も見ないで、何も知らないで、個人レッスンなんて気持ち悪いでしょ?って思うのね。でも、そこを理解して貰えないと、全く何も教えて貰えないとか、雑談ばかりだったなんて言われる
だろうし・・・だから、先生katsuって言う人が教えるのと、作家katsuが教えるのでは、スイッチが全く違う訳で・・・この方の場合、完全に作家katsuのスイッチでやっているのね。
何しろほって置く時間に何をどうするんだろうか・・・って感じで、時より見ちゃこんな感じ、また日常会話をしつつみたいに・・・その間、すぐに見に行けるペーパー掛けをしたりして・・・。
そんなこんな後は、そのペンキ塗り。仁科さんが彫ってくれたメンダコを残して、明日あたりにペンキ塗りが全て終わるから、来週にはひとまず下地作りはおしまいになるのね。
それが完成すると950枚程度になる・・・これを下回るのか?上回るのか?で、今後の展開も変わって来るのね・・・。
それと一体、何がこの方が大事な事なのか?って言う聞き取りみたいな感覚が必要で、個人レッスンって、普通の日常会話の中から、いかにその人らしい感覚を見つけるか?って言うのが、
こっちの役目だったりもするのね。逆にテクニックやセンスなんてもんは、ん・・・そうね、例えば、鉛筆を持ったばかりの子に、こう書くと上手く見えるよ・・・って最初から必要?とか、
バットを振った事も無い子に、こうこうこうする・・・って、何も見ていないのに、誰もかれもに同じ指導からスタートって・・・それって個人レッスンじゃ無いじゃん。だからまず基本動作を
教えたら、どんな事を考えて、どんな事をするのか?見たいのね。その後に、ちょっとだけそれの是正を口出しして、それとの差を感じて貰う。そこに差をどの程度感じるか?でまた是正・・・
その人の味付けを一緒に探す・・・こんな事の繰り返しなのね。そうね、これだけ切れるようになると、隙間みたいに狙って1枚入れるって場所は、1色を選んで入れるだけ。そう、だけなのね。
だけ・・・って言うのが安心して見ていられる事で、これが2個以上のパーツになると、同じ色に
見えるなら、問題は形のみになるが、色が違って見えるようだと、2色以上選ばないとならない。
そこに形の悩みが加わる。どっちの色が多めか?・・・ってね。そこを良く見極める。それがどっちって2つに1つなら判りやすいが、3色となると形が一緒では、色の強いものが影響が強くなる。
しかも1cmの大きさ。クラッシュを作ろうとして切り過ぎると、イビツなお団子みたいになって、みんな同じ形に見えて来るし、切らな過ぎると、ゴツゴツしたり、四角いものばかりになるのね。
丁度良いって言うのは、しょっぱくも無く、甘くも無い、甘じょっぱいって感じなのね。でもそう伝えると、しょっぱいのが好きな人もいるし、甘いのが好きな人もいる。そんな事はまた良いが、
作っている本人が、どうしたいか?の意識が薄い場合・・・つまり自覚無く進んでしまうと、こんなはずじゃ・・・とか、何か変・・・なんて事になる。本来作り手が意識をすれば、上手いか
下手かは別にして、方向性は合っている事になるはずだが、暫定・・・つまり何と無く始めてしまうと、何と無く進むのだから、何と無くのパーツに何と無く合わせる事になるのね。
つまり1手目が全てを握っている・・・そこにまた合わせる2手目。みたいになると考えると、多少間違ったパーツがあったとしても、方向性は変わらないが、1手目が何と無くの場合、そこが
違えば、しょっぱくしたく無いのに、塩をばぁーっと入れちゃった感じになるし、しょっぱくしたいと思っていても、細かく細かくしといて、沢山入れたからって、大きめ甘いの1つドーンって、
入れれば、しょっぱさは簡単に消えるみたいな・・・最初の1手は方向性決めみたいなもんで、そこから波及して行く感覚なんだけれど、そもそも狙って切れないと、こう切りたいのにこう切れないもどかしさになるのね。
だから、まず切れる練習になる。そこである程度切れるようになったら、感覚って言う、感じる事が大事で、どう見えるか?となるんだけれど、感じ方は人それぞれなのね。だからそれを日常の
会話の中から拾い集めるのね。何をどう感じる人なのか?・・・ってね。それをみんな同じって、昭和か軍隊か?って話で、多様性なんて言ったら、もはや個人レッスンなんてみんな違う訳で・・
それを何も見ないで、何も知らないで、個人レッスンなんて気持ち悪いでしょ?って思うのね。でも、そこを理解して貰えないと、全く何も教えて貰えないとか、雑談ばかりだったなんて言われる
だろうし・・・だから、先生katsuって言う人が教えるのと、作家katsuが教えるのでは、スイッチが全く違う訳で・・・この方の場合、完全に作家katsuのスイッチでやっているのね。
何しろほって置く時間に何をどうするんだろうか・・・って感じで、時より見ちゃこんな感じ、また日常会話をしつつみたいに・・・その間、すぐに見に行けるペーパー掛けをしたりして・・・。
そんなこんな後は、そのペンキ塗り。仁科さんが彫ってくれたメンダコを残して、明日あたりにペンキ塗りが全て終わるから、来週にはひとまず下地作りはおしまいになるのね。
それが完成すると950枚程度になる・・・これを下回るのか?上回るのか?で、今後の展開も変わって来るのね・・・。