今日はまず先日体験経て、2度目の方・・・そして午後から中学生の教室。ではまずリピーターさんから。あじさいが作って見たいって事で、先日デイ・サービスで使った同じ下地でスタート。今回は同じ下地であっても、切ることが初めてであっても、時間を掛けると違う仕上がりになる・・・
って言う比較も出来るだろうって言うのを感じて貰う・・・って言う意味も含んでいるのね。結果から言えば、3時間でこれしか進まないのね。これを白い部分のタイルも事前に選んであって、デイ・サービスでは1時間半くらいで完成しちゃったのね。でも、一枚も切らなかったのね。
それが初めて切るし、しかもその白い中心部に丸も入れると、時間は更に掛かるが、よりあじさいに見えるのね。それがひと手間って話なのね。それともう1つあって、気って話なのね。ニッパーを購入したい・・・って場合、自分のニッパーを持ったら使って見たくなるでしょ?
それが様子を見て・・・って場合、それよりもハードルが下がるから、切る意識ってものが、少しそがれる事もあるのね。そうだなぁ、例えば、雨が降って来たからビニール傘を渋々買った・・・って言うのと、傘を数千円出して、お天気の日に買いに行った・・・これって意味が変わるでしょ?
他にも傘を借りたって感覚と、自分の・・・こう言う事に何も反応が無いのなら、良くも悪くも気分ってものではほぼ変わらない性格になるが、こう言う事が判るって人は、場合に寄っては気分が左右されたりするって事だから、新品なんて言うのは、気分が良いし、使ってみたいって感覚になる。
ただそこは気分・・・気なんてものは、とても曖昧なもので、そんな気分になっても、切れるのかな?って後ろ向きになれば、不安になるから、おっかなびっくりになり、腰が引けるような感覚になる。そうね、初めて持つ包丁ってな感覚ね。これが逆に切りたいぃぃ・・・って感じだと、
気は申し分ないんだけれど、こんな場合は結果次第なのね。おっ切れたぁ・・・って感じれば、出来るって気分に繋がるけれど、あっ・・・って言ったら、失敗した事になる。それを2、3度繰り返せば、気分も落ちるものでね。でも切れるじゃん・・・くらいだと、何とかなるかもって感じに、
思えたりするだろうし、最初からチェッって感じで、思ったように切れないものだな・・・って厳しい目を持っていたら、もっともっとと深追いになる。その時にもう既に、体験と違って今日終わらなくて良い・・・ってお約束してあると、慌てないが、今日終わりたいって体験では、ここまで、
こだわる事は出来ないのね。だから体験は小難しい事は少なく、完成が目的になる。だから苦労が無い分、楽で楽しいに繋がるのね。所が数回掛かっても・・・って場合、この1回を捨て回になっても、今後大事になる事を勉強する・・・って事が、俺も大嫌いな基礎回になるのね。
しかも教えている俺が嫌いな説明が必要になるのね。切る前の所作みたいな話ね。ニッパーの持ち方、姿勢、何故そうするのか?それを意識しないと、例えば、料理をしない人でも、カレーを作るのにじゃがいもの皮って剥く?とは聞かないでしょ?そんなの当たり前だって思うから。
じゃ何も考えずに人参も剥かなきゃ・・・となると、賢者は、そこに栄養があるから剥かないよって人もいれば、剥く人もいる。ほら微妙に変わって来るのね。単なる思い込みだと何も考えずにただ剥くって漠然と始めちゃうのね。この感覚を言葉にするのね・・・常に。
つまり考え方の問題だから、じゃがいもは剥く・・・って思った。つまりその人が思えばタイルを切るんだろうね。じゃ逆に切らないって思えば、そのまま張るんだろうね。これを初めてお絵描きタイルを使った棟梁は、このタイルの特徴は角が無くて柔らかいフォルム・・・なるべくそこを残して
・・・なんて言う、その素材を活かそうとしたのね。ここの所作的な事が上手い人ってのは、ただ切る事が上手くなっただけじゃ無くて、素材を良く見ているし、何を大切にすべきか?って言うのを五感の視覚を使って見逃さないのね。それを感じられる・・・感が良いって言うのはこう言う事。
そうね、この感覚って話で言うのなら、習い事って言うのとお稽古の違いって感じかな?俺は習い事はした事はあるが、お稽古は無いのね。これをはぁ?って人は違いを感じ無いだろうけれど、習い事ってのは技術を得るだけって感じね。でもお稽古ってのは所作なのね、きっと基本は。
ここが無いと単なる腕だけになるのね。ただ所作っていちいち面倒臭いと思うのね。まぁここが俺の品の無い所になるんだけれどね。模範なんて言葉があるように、所作なんて事になると、品なんてもんを問われたりもするだろうし、所詮職人の子供に過ぎないし、品なんて習っていないから、
恐らくこんな感じ・・・ってなもんだから、正解では無いのね。ここも自己流だから、何しろ不正解にならないように・・・って感じね。ただエリートって言うのなら、そっちの生き方てのは、そっちの所作ってもんがあるだろうし、こっちは下まで落ちれば、下品なんて事にもなる。
話を戻して、まだ2回目だし、難しい話は抜きにして楽しみの割合が多い方が・・・と思うんだけど、恐らくお稽古って側にいた事がある人なんだろうな・・・って言うのが、随所に見られるのね。普通は切るって行為に必死に夢中になるものなのね。つまり今を見ているし、今日の分は・・・って
感覚だからなのね。でも、明日以降も来る・・・って言う場合、遠い未来みたいな感じになり、今日の分の進む事を重視するんじゃ無くて、今後も使う事を会得するみたいな感覚となり、全く意味が違うのね。こんな違いは何処に出るか?って事になると、例えばニッパーの持ち方や姿勢なんて事を
その時間内に何度も言う事になったりするのね。だって進みたいから。進行速度の方が重視だから。夢中や必死が先行するから、俺の声は半減されるのね。所が所作的になると、俺が切るのを手を止めても見ようとしたり、何しろ真似をするとか、覚えようとするって言うのが身に付いているのね。
けれど、それって進まなくなるのね。でもそれを得られれば、今後迷う事は無いんだけれどね・・・ただ2回目・・・まだ良いんじゃ無いのかなぁとも思うんだど・・・。いずれにしても、そんな時間を過ごせば、この程度進むのが普通なのね。そして次にどのくらいの間隔が空くのか?で、人は忘れる
ものでね・・・思い出すまでにどの位掛かるか?なのね。そんなこんなで間髪入れずに中学生教室。
こっちは2年目。そして受賞者となると、さっきとは一転、こっちはガッチリ所作でしょ・・・になる。何故なら、来年も・・・みたいに言われているから、既に次がある前提なら、それ相応の話が出来るし、別に楽しみに来ているんじゃ無いんだから、きちんと教えるに専念出来るのね。
まず下絵から今回は1cmタイルが良いだろうって事になるんだけれど、また感じ方の話ね。もし仮に1年生だったら、去年まで小学生だったんだから、何作りたい?の質問に・・・鳥ぃぃ。じゃどんな鳥?・・・小鳥ぃぃ。ここで色から入るか?何の鳥か?みたいな聞き方になるんだろうね、きっと。
所が受賞者となれば、鳥・・・じゃどんな鳥?って時に、例えばワシって言ったとする。もし30cmの大きさで作ったら、どんな感じ?恐らく全身をいれようとするから、どんなにきちんと作っても、ワシに見える小鳥になるだろうね。つまり見えただけになる。ワシだね・・・って感じね。
例えば書道だとする。達人にある程度の大きさでサラッと書いて貰うと、おーって凄いなとか、上手いな・・・みたいになると思うのね。ではその半紙を半分、更に半分と折って行くと、とても窮屈になって行くだろうね。その時に、米に書いて・・・って頼んだら、果たして達筆かな?
それは米に字を書く人の方が上手いんじゃ無いかな?つまりこの話で言いたいのは、上手くても小さくする限界はある。しかも美しさ重視ならある程度の大きさが必要ってね。その時に、ワシは?って事になると、迫力って欲しくならない?つまり出来るだけ大きく描く事ってルールになるのね。
ここを勘違いする人がいて、大きくなくちゃ駄目ですか・・・って。そもそも大きいと何が都合が悪いのか?なのね。その時に、理由は色々あるが、例としては、飾る場所だったりする事があるのね。この場合、場所ありきで考えれば良いのに、場所は決まっている、モチーフもそこに収めたい・・・
そう収める感覚、つまり収納的になるのね。これでは目的意識としては、ワシに見えるを目指す事になる。つまり読めれば良い字って感じね。美しさからは大きく遠のくだろうね。そしてモチーフを選んだ時点での、そのモチーフが持つ特徴・・・ほら感の話。ワシは大きいなぁ・・・。
子供でも判るのね。じゃ大きくすれば良いのね。でも大きいのは・・・飾る場所がって言うのなら、じゃ顔をアップに。そうすれば、本物と同じ大きさで作れるから、繊細に作れる。全身では無いが、迫力は出せるはず。こんな折り合いを付ければ、良いが、大抵はどれも譲れないって場合と、
オダギリジョーさんじゃ無いが、じゃ良いですぅぅぅになったりする。まぁこんな場合、そのモチーフにそれ程の思い入れが無かったからなのね。それが絶対なら、例え顔だけでも・・・になるのね。話を戻して、こんなのが基礎の基礎なのね。本題はここからなのね。
じゃ更にそのワシってどんな感じ?・・・このやり取りはモンタージュ作りだと思うのね。より追求するのなら、犯人を割り出せるだけの協力が必要だけれど、大体こんな感じ・・・ってザックリしか伝える気が無ければ、大体の仕上がりになるのね。こんな目に見えない指導の場合、親御さんが、
横にいて下さると、非常に助かるのね。何故なら、自宅に帰っても場合に寄っては、これだけ・・・って進み具合で心配になったり、えっ?何を教わったの・・・?って聞きたくなるでしょ。こっちはこんなに声を張って、しっかり向き合ってんのにね・・・とほほなのね。
まずワシはでかい、でかいなら迫力がある。こんな連想ゲーム的な事は、俳句の季語みたいなルールで、金魚は夏みたいに、俳句をやっていなくても、多分そうかな・・・と思えるでしょ?つまり見た事のある人は、常にイメージってものがあって、いかにその共有が出来るか?なのね。
ただそんな単純なら、別に俺でも彼でも対して変わらないのね。そりゃ技術に差はあったとしてもね。その時に、その差は埋まらない・・・って思うのが普通なのね。じゃそれを普通に思うのなら、今後一切、お母さんのやる事に疑問を持つななのね。どれも出来ない癖に。
違うんだな・・・五感とは、そんな単純なものじゃ無いのね。作れもしないのに味にケチを付ける。味覚でね。そうかと思えば、前の曲の方が良かったね・・・はぁ?作れんのかよ。そうなのね。作れもしないのに、聴覚で感じちゃうのね。前のが良かったってね。その聴覚は、こっちのヘッドホン
のが音が良いとか、作れもしないのに、歯ブラシは、硬めが良いとか・・・これザラッとしてるとか、ツルツルぅみたいな触覚だったり、作れもしないのに・・・なのね。つまり出来もしないのに感じるって五感は、技術には一切関係の無い話なのね。そんなくだらない事で、思い込みで諦めるのは
ナンセンスなのね。つまり五感も鍛えりゃ良いだけなのね。そこにタイルを切る張る技術は関係無いから、常に平等なのね。勿論、目が見えないとか、耳が・・・って障害を持っていたら不平等だけど。だから俺も彼も平等なのね。つまり対等で臆せず考えないと・・・なのね。
では戻って、もう既に誰でも、ワシはでかい、でかいから迫力があるなんて当たり前なのね。だからさらなるどんな?なのね。そこに可愛いって付ければ、可愛いワシになるし、より迫力なんて付ければ、肉片を加えたり、顔の周りに血が欲しくなる・・・。ここを間違えると、どうしたいの?
って聞きたくなるのね。その時に、こう質問すると、肉片だったり、リボンを付けたり、ってモノから入るやり方は、何となくって感頼りになるから、趣旨と大きく外れて行く可能性が高くなるのね。だからまず趣旨決めみたいに、どんな?ってイメージ作りなのね。
所が普通このイメージって言葉の解釈を間違えて、キッチリ考えて決めてしまう人がいるのね。その場合なら、俺は要らないのね。だって決まっているのだから、口出し無用でしょ?ただフィーリングや感覚でやっていると、大きく趣旨はブレるものなのね。それは自分勝手に変更出来るからね。
ルールが自分って感覚は、やっぱ都合が悪いから、手を使って良し・・・とか、逆回りも良いじゃん・・・とか、しょっぱくても美味しいから良し。みたいに自由過ぎてもはや他人は理解不能になる。ルールを作ってそこから変化にしないと、着崩しじゃ無くてだらしなくなるのね。
面倒なんだけれど、所作ってのは何時代だか知らない頃から決まってんのね。だから変えちゃ行けないのね。でもね、例えばまさか正座の出来ない状況な歳だったり、車椅子だったりしたら、やっちゃいけないの?っな話なのね。まさかそんな事は想定されていなかったのね。
じゃ駄目なら諦めるのか、ルールを変更するのか?はたまた新しい流派を立ち上げるか?って話でしょ。俺は先生がいないから、自己流なのね。つまりちゃんとを心掛けないと、だらしなくなっちゃうのね。でも楽しいだけなら、出来れば良いだけだから、こんなのは誰でも先生になれる。
それをある程度上手くするのも、単なる技術。こんなのは反復すりゃ簡単。それをセンスなんて言う人もいるが、無いって決めるなら、センスを借りれば良い。つまりお手本になる下絵通り・・・つまり模写になる。けれど、オリジナルとなると、誰も教えてはくれないのね。だから考える・・・
構想ってのはそう言う事なのね。その考え方が連想ゲーム。行き止まりになるまでやる。ワシはでかいし迫力があるのは当たり前。そんなの誰でも考えずに出て来るのね。もっと自分しか考えないような事にしないと・・・。それをいきなり言われてもさぁ・・・になるでしょ。
だから、まずどんな・・・なのね。例えばキラキラとか言ったとする。そしたら、キラキラに見えるタイルは何?って考えるのね。でも忘れては行けないのは、迫力って言ってたんだよね・・・つまり迫力キラキラ色って何?って具合いに、自分の言った言葉をどんどん乗せて見つけ出すのね。
これが色から入る人達の考えね。それを趣旨から入る俺の場合は、物語的な発想なのね。つまりこのワシは何処から来て何処へ向かうの?とか、戦って傷を負っているのに、向かう先へ・・・とか、明日への希望とか、向かう先が遠いのか、そこなのかで、目標の例えとなるモチーフの位置とか・・・
例えばさ、ハンバーグを食べたい・・・って店に行ってね、出て来た量が80グラム・・・勿論一体誰が食べるか?が問題なんだけれど、付け合せが大盛りだったり、ソースが別なのか、もうタップリ掛かっているのか、はたまてお好みなものをお掛け下さい的に選べるとか・・・全部自分なのね。
そもそも食べたい・・・なんて言う言葉が、結構食べたいんじゃ無いの?って思うと、200グラム以上欲しいかな・・・中学生は・・・。とか、でも見栄えとして、付け合せがハンバーグ以上に見えたら、お店側としては、美しくないかなぁ・・・とか、色々考えるのね。
その時に、考えるって言うのは、ただ食欲を満たすだけなら、ワシに見えりゃ良いだけなのね。中学生の初めてのデートみたいなシチュエーションだったら?とか、クラブ活動の帰り、しかも運動系、先輩はいなくて、同級生の仲間だけ、気を使わずに・・・なんて事になれば、食べ放題みたいなとか
同じハンバーグでも、変わって来るでしょ?一人暮らしで真冬・・・作るの面倒だし、お金も無いしなぁ・・・でもお腹すいたし・・・ってなれば、コンビニかお弁当屋さん。これが今日は奮発して・・・とかになれば、ファミリーレストランとかのデリバリーとかにしたとする。
でもお店では、フォークとナイフだったり、食器だって違うのが、捨てられる前提の容器だったりして、味は一緒でも見栄えが変わる。こんな違いわ表そうとするから、繊細なんて表現になるのね。それを決めてから、その色はどれ、どう切ると見える?ってね。
何とも面倒な話なんだけれど、彼はそこそこ付いて来るし、このやり取りに慣れて来てるし、どんな感じ?って質問が何を聞きたいのか判っているのね。それなら来年はもっと話せる・・・のね。そんな後は、何も出ないが歴史館について・・・ん・・・どうする?