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沖縄に行って

2008年11月23日 | Weblog
 先日、沖縄に行く機会がありました。観光はあまりする機会はありませんでしたが、 夜は、懇親会がありました。琉球おどりなどをするレストランに行きました。そのあと、チャクラに行きライブを聴きました。喜納昌吉さんはいませんでしたが、チャンブルーズの歌を聴きました。


 沖縄は、明と暗が同居をしているところだと改めて感じました。一緒に行った方から話を聞きました。


 喜納昌吉さんが幼いときに、夜、近くの家から悲鳴が聞こえたそうです。みんなが駆けつけると、幼い子どもの足が布団から見えたそうです。急いで、布団をはぐると、そこには頭がない死体が。頭は、熱湯が入っている鍋の中に。そんな震撼とさせられる事件がおこりました。父親が呆然とそこに立っていたそうです。その事件をおこしたのは、母親だったそうです。その事件が起こるのには、沖縄の歴史的な背景があったのです。母親は、天皇という神の前に自決をする人を多く見てきました。壕の中で、自決をするために親が子を殺したり、崖から海に身投げをする残虐な光景を見てきました。米軍との戦いを目の当たりにしました。沖縄は、アメリカ軍と日本軍との唯一の戦場になりました。


 奇跡的に生き残った母親は、今でいうPSTD(心的外傷後ストレス障害)だったのです。想像を絶する、人が人を殺していく現状が彼女の心をずたずたにしてしまったのです。


 もっと過去を振り返らずに前向きに生きていこうというメッセージを喜納昌吉さんは歌に残してきました。「ハイサイおじさん」は、この事件の父親のことを歌っているものだそうです。辛い現実を見るのではなく、もっと明るく生きていくんだというせめてもの励ましの言葉だったのかもしれません。一つひとつの歌の中には、いろんな過去の歴史が盛り込まれています。チャクラの人たちは、「武器を楽器に」というTシャツを着て演奏を行っていました。


 
 そしてこの歌詞の意味はインターネットではこのように伝えられています。


「島唄にもいろんな思いがあります。
「でいごの花が咲き風を呼び 嵐が来た」
から唄は始まります。
「1945年4月1日 春が訪れ 沖縄本島に米軍が上陸した」
という意味です。
島唄は日本軍と米軍が戦った沖縄本土決戦のことを唄っていて、多数の民間人を含む犠牲者が生まれたその戦争のことを伝えようとしているのです。 作り話ではない本当の物語が語られている島唄は世界各国でも人気を集めています。戦争のことを全く知らない世代の方も、今から60年前に本当に起きた事実を是非、音楽として感じてもらいたい。 そしてこの素晴らしい歌詞をのせるメロディも素晴らしい出来です。」と。




 でいごの花が咲き 風を呼び嵐がきた
 でいごが咲き乱れ 風を呼び嵐がきた
 繰り返す悲しみは 島渡る波の様
 ウージの森で あなたと出逢い    (※ウージはさとうきび)
 ウージの下で 千代(チヨ)にさよなら
 島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
 島唄よ風に乗り 届けておくれ
 私の涙

 でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
 ささやかな幸せは うたかたの波の花
 ウージの森で 歌った友よ
 ウージの下で 八千代(ヤチヨ)の別れ
 島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
 島唄よ風に乗り 届けておくれ
 私の愛を

 
武器を使わなくて済む社会を創っていきたいものです。悲惨な歴史を繰り返してはいけないのです。
 
 沖縄の青い空、青い海。南国情緒豊かな場所です。その明るさと戦争の歴史が交錯をしている沖縄。帰りの飛行機から見るきれいな青い海と空は、多くの戦いが繰り広げられ多くの命が散っていった悲しい海と空であったのです。学童疎開をしていて沈没をさせられ、多くの子どもたちを飲み込んだ対馬丸事件もこの海のどこかでおきたものなのでしょう。


 でもそれを乗り越え、沖縄は存在をしています。

 観光はほとんどできませんでした。しかし、研修の後の首里城と金城の石畳のところになんとか行くことができました。沖縄の歴史と文化の香りを感じることができました。写真はチャクラの様子です。