絵本には、心を打つものがたくさんあります。先日、ある絵本をみることがありました。なつかしい絵本でした。思い出の話でした
小学校勤務時代には、秋には学校で文化祭的な行事がありました。「西谷文化の祭り」「樋田っ子まつり」「図書館まつり」「木の子まつり」と子どもたちがクラス劇などを発表します。
台本は作ったり、本から抜き出したりして持っています。「ムッちゃん」「すみれ島」「泣いた赤鬼」「ごんだぬき」「一休さん」・・・。その中から、子どもたちにあった台本を使います。
ある小学校勤務時代に国語の研究をしていました。そのときに、福岡の小学校の研究会に行きました。授業を見たあとの講演。講師は、今西佑行さんでした。
小学校4年生の教科書にものっている「一つの花」の作者でもあります。講演の中で、今西さんの作品である「すみれ島」の朗読がありました。聴きながら感動をしました。
当時、インターネットがあるわけでもなく、その作品をさがしましたが、見つかりませんでした。しかし、しばらくして、ある雑誌に文章が掲載されていました。それから文章を見ながら、脚本を作りました。なんどか夏の平和学習の時に、子どもたちで朗読したり、劇にしました。
先日、ある先生が「すみれ島」の絵本を持っていました。懐かしく文章を読みました。子どもたちと劇を創った時のことが懐かしくよみがえりました。
すぐにインターネットで探して購入しました。今日届きました。宝物が届いたようなそんな感じがしました。悲しみが静かに伝わってきます。そして、平和の意味を感じさせながら、心にひびいてくるものがあります。ぜひ、読んでみてください。引用します。
『すみれ島』
今西 祐行文 松永 禎郎絵
九州の南の端に近い海辺に
小さな学校があった。
昭和二十年、春のこと、
いつからかまいにちのように、
日の丸をつけた飛行機が、
学校のま上を飛ぶようになった。
生徒たちは そのたび、
バンザイをさけんで、手をふった。
すると、飛行機は、
まるでそんな声が
きこえたかのように、
ゆっくりつばさをふって、
海のむこうへ飛びさった。
先生たちは知っていた。
それが、
かた道だけの燃料しか持たないで、
ばくだんとともに
てきの軍艦に突入する
特攻機であることを。
そして、最後のサヨナラ
をしていることを。
だが、子どもたちは、
飛行機が、なんども
学校に飛んできているのだ
とばかり思ってよろこんでいた。
そして、手紙や絵をかいて、
航空隊におくってもらった。
「飛行機からぼくたちが見えますか。
こんどは、もっと大きく
つばさをふってください。」
手紙にはそんなことを
いっぱいかいた。
手紙をだしてから、
飛行機はほんとうに、つばさを
大きくふってくれるように思えた。
手紙や絵もかきあきたころ、
ひとりの女の子がいいだして
すみれの花たばを
おくることにした。
みんなでつんで、いくつものはなたばにして、
代表が先生といっしょに、とおくの航空隊までとどけにいった。
するといく日かして学校に手紙がきた。
「すみれの花を たくさんありがとう。
ゆうべは とてもたのしい夜でした。
ぼくは 小さいとき、よく
すみれの花で、すもうをしました。
みなさんは知っていますか。
すみれのことを、ぼくたちは、
<すもうとり草>とよんでいました。
すみれの花をからませて、
引っぱりっこをすると、
どちらかの花が、ちぎれます。
ちぎれたほうが、まけです。
きのう、たくさんのすみれをいただいたので、
みんなで それをやりました。
せっかくもらった花を、ちぎってしまって、
わるいなと思いながら、
花がなくなるまでやりました。
毛布の中を
花だらけにしたまま
ねてしまいました。
かすかに、
いいにおいがしました。
今、出撃の号令がかかりました。
みなさん、ありがとう。
ゆうべはほんとうにたのしい夜でした。
いつまでもお元気で。サヨーナラ。」
先生は、声をつまらせて読み終えると、
「このお手紙をくれたかたは、
もう、南の島で、戦死しているのですよ。
もう、いらっしゃらないのよ・・・・・・」
そういって、生徒のまえで泣いた。
そして、先生は、はじめて
特攻機のことを、くわしく話した。
その日から、子どもたちは、
野原にすみれの花がなくなるまで、
花たばをつくって、
おくりつづけたのであった。
いく機の特攻機が
子どもたちのすみれを持って
南の海にちっていったことだろう。
そんな特攻機のいくつかは
とちゅうで、こしょうして、
だれも知られずに
海や島についらくしていた。
戦争がおわって、
いく年かがすぎた。
南の島の無人島の一つに、
いつからか、いちめんに
すみれの花が さくようになった。
子どもたちのおくった、
すみれの花たばに、
たねもまじっていたのだろうか。
海べの人たちは、
名まえのなかったその島のことを、
<すみれ島>
とよんでいる。
小学校勤務時代には、秋には学校で文化祭的な行事がありました。「西谷文化の祭り」「樋田っ子まつり」「図書館まつり」「木の子まつり」と子どもたちがクラス劇などを発表します。
台本は作ったり、本から抜き出したりして持っています。「ムッちゃん」「すみれ島」「泣いた赤鬼」「ごんだぬき」「一休さん」・・・。その中から、子どもたちにあった台本を使います。
ある小学校勤務時代に国語の研究をしていました。そのときに、福岡の小学校の研究会に行きました。授業を見たあとの講演。講師は、今西佑行さんでした。
小学校4年生の教科書にものっている「一つの花」の作者でもあります。講演の中で、今西さんの作品である「すみれ島」の朗読がありました。聴きながら感動をしました。
当時、インターネットがあるわけでもなく、その作品をさがしましたが、見つかりませんでした。しかし、しばらくして、ある雑誌に文章が掲載されていました。それから文章を見ながら、脚本を作りました。なんどか夏の平和学習の時に、子どもたちで朗読したり、劇にしました。
先日、ある先生が「すみれ島」の絵本を持っていました。懐かしく文章を読みました。子どもたちと劇を創った時のことが懐かしくよみがえりました。
すぐにインターネットで探して購入しました。今日届きました。宝物が届いたようなそんな感じがしました。悲しみが静かに伝わってきます。そして、平和の意味を感じさせながら、心にひびいてくるものがあります。ぜひ、読んでみてください。引用します。
『すみれ島』
今西 祐行文 松永 禎郎絵
九州の南の端に近い海辺に
小さな学校があった。
昭和二十年、春のこと、
いつからかまいにちのように、
日の丸をつけた飛行機が、
学校のま上を飛ぶようになった。
生徒たちは そのたび、
バンザイをさけんで、手をふった。
すると、飛行機は、
まるでそんな声が
きこえたかのように、
ゆっくりつばさをふって、
海のむこうへ飛びさった。
先生たちは知っていた。
それが、
かた道だけの燃料しか持たないで、
ばくだんとともに
てきの軍艦に突入する
特攻機であることを。
そして、最後のサヨナラ
をしていることを。
だが、子どもたちは、
飛行機が、なんども
学校に飛んできているのだ
とばかり思ってよろこんでいた。
そして、手紙や絵をかいて、
航空隊におくってもらった。
「飛行機からぼくたちが見えますか。
こんどは、もっと大きく
つばさをふってください。」
手紙にはそんなことを
いっぱいかいた。
手紙をだしてから、
飛行機はほんとうに、つばさを
大きくふってくれるように思えた。
手紙や絵もかきあきたころ、
ひとりの女の子がいいだして
すみれの花たばを
おくることにした。
みんなでつんで、いくつものはなたばにして、
代表が先生といっしょに、とおくの航空隊までとどけにいった。
するといく日かして学校に手紙がきた。
「すみれの花を たくさんありがとう。
ゆうべは とてもたのしい夜でした。
ぼくは 小さいとき、よく
すみれの花で、すもうをしました。
みなさんは知っていますか。
すみれのことを、ぼくたちは、
<すもうとり草>とよんでいました。
すみれの花をからませて、
引っぱりっこをすると、
どちらかの花が、ちぎれます。
ちぎれたほうが、まけです。
きのう、たくさんのすみれをいただいたので、
みんなで それをやりました。
せっかくもらった花を、ちぎってしまって、
わるいなと思いながら、
花がなくなるまでやりました。
毛布の中を
花だらけにしたまま
ねてしまいました。
かすかに、
いいにおいがしました。
今、出撃の号令がかかりました。
みなさん、ありがとう。
ゆうべはほんとうにたのしい夜でした。
いつまでもお元気で。サヨーナラ。」
先生は、声をつまらせて読み終えると、
「このお手紙をくれたかたは、
もう、南の島で、戦死しているのですよ。
もう、いらっしゃらないのよ・・・・・・」
そういって、生徒のまえで泣いた。
そして、先生は、はじめて
特攻機のことを、くわしく話した。
その日から、子どもたちは、
野原にすみれの花がなくなるまで、
花たばをつくって、
おくりつづけたのであった。
いく機の特攻機が
子どもたちのすみれを持って
南の海にちっていったことだろう。
そんな特攻機のいくつかは
とちゅうで、こしょうして、
だれも知られずに
海や島についらくしていた。
戦争がおわって、
いく年かがすぎた。
南の島の無人島の一つに、
いつからか、いちめんに
すみれの花が さくようになった。
子どもたちのおくった、
すみれの花たばに、
たねもまじっていたのだろうか。
海べの人たちは、
名まえのなかったその島のことを、
<すみれ島>
とよんでいる。