昨晩、テレビで「はだしのゲン」を見ました。原爆のシーンでは、涙が出ました。いま、その後編を見ています。
私の母がこの6月15日に亡くなりました。82才でした。
母は1945年(昭和20年)8月7日、単身、広島に入りました。広島のどこかの兵営にいるはずの夫をさがしに行ったといいます。そのとき母は、私を身ごもっていました。私は6ヵ月半の胎児でした。
私は、母から原爆ヒロシマの話を、くり返しくり返し聞いてきました。
広島駅では、列車が横倒しになっていて、つり革を持った人たちがそのままの形で、炭のように黒焦げになっていました。
市内の川の水際には息絶えた人たちが折り重なっていました。水をください、水をください、と助けを求める人がたくさんいました。
腕の皮膚がずり下がって手首のところでとどまり、その形のままの皮膚だけの手首をひきずって歩く人がたくさんいました。
広島の電話局で電話交換手をしていて被爆した、夫の親類の娘さんは建物内にいて外傷が無かったのに、2か月ほどして苦しんで亡くなったそうです。
3年前、母は思い立って、広島に写生旅行に行きました。
母は原爆ドームの絵を仕上げました。ニュースで見る原爆ドームとは色合いが違っています。建物は暗いゴールドが基調で、建物の背景が赤と黒の混じりあった色彩で仕上がっています。
母は明るい表情で広島から帰ってきましたが、仕上がった原爆ドームの絵には、その時代の母の人生とそれを思い返す晩年の母の思いが詰まっています。
母が描いた原爆ドームの絵は、私には名作のように見えます。私にとってかけがえのない、母の遺作です。