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朝日新聞2014年6月23日朝刊が次のように伝えました。
――第2次世界大戦の敗戦後、日本と同じく新たな憲法に「戦争放棄」を定めたイタリア。だが、歴代政権は人道的介入や復興支援などを理由に憲法の解釈を広げ、他国への派兵を繰り返してきた。平和主義の理念は変質し、母国を遠く離れた戦地で兵士の命が犠牲になっている。
下にイタリア憲法を朝日新聞から転記して、日本国憲法と並べます。
第2次世界大戦敗戦国のイタリア共和国憲法
第11条 イタリアは、他国民の自由に対する攻撃の手段および国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば、他国と同等の条件のもとで主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し、支援する
第2次世界大戦敗戦国の日本国憲法
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
朝日記事によれば、5月初旬、小野寺防衛大臣がイタリアを訪れました。その折にイタリアのピノッティ国防大臣が、「同じ戦争放棄憲法を持つ立場として、日本の集団的自衛権論議を深く理解する」という内容のことを話したという。
小野寺防衛大臣は、意を強くしたことでしょう――日本だけではない、と。日本では、安倍内閣総理大臣が強権で、憲法解釈の変更をしゃにむに進めています。
安倍首相の言う「積極的平和」とは、軍事力強化、軍事力で対決すること。機雷掃海とは軍事関与をすること。私はこのように理解しています。このまま閣議決定が強行されて、今もその後も私たちの平和を守る意思表示が弱ければ、行く末はイタリアのようになってしまいます。
小野寺防衛大臣にとっては、勇気を得るイタリアの実例でありましょう。一人の民衆、一人の市民にすぎない私にとっては、もともと危惧していた通りの日本の近未来の姿を、現実の姿として証明しているイタリアの例です。
以下に、朝日新聞6月23日朝刊の記事を転載します。
<朝日新聞 2014.6.23.>
戦後の1948年に施行されたイタリア共和国憲法は、第11条で戦争放棄を定めた。ただ、日本国憲法と違い、同条の後段には国連加盟と国際社会への復帰を念頭に置いたくだりがあり、歴代政権はこれを「国際平和の促進」などとして柔軟に解釈することで海外派兵につなげてきた。
■ユーゴ空爆拠点
イタリアは49年、北大西洋条約機構(NATO)に加盟。82年、レバノン内戦ではパレスチナ難民の保護を名目に派兵。91年の湾岸戦争では多国籍軍に航空機と艦船を送った。
「戦争放棄条項が踏みにじられた」として大きな議論となったのが、99年の旧ユーゴスラビア空爆だ。旧ユーゴはNATOの域外にあり、国連安全保障理事会の決議もなかった。空爆は国際法上の根拠が薄いとされたが、政府は支持。イタリア国内の基地は欧州最大の出撃拠点と化した。
イタリア国会はNATO軍への参加について「後方支援に限定する」などと決議したものの、米軍の護衛についたイタリア機は旧ユーゴの軍事拠点を爆撃した。当時のダレーマ首相は「近隣国に展開するイタリア軍部隊や、人道援助団体を守る責任があった」などと弁明に追われた。
■アフガンに3000人
アフガニスタンには02年から、イラクにも03年から派兵した。イタリア軍によると、今年5月末現在で国連平和維持活動(PKO)を含め、25の国と地域に計5738人を派遣中。最多はアフガンで、5割強の2995人が駐留する。
アフガンではこれまで、従軍記者1人を含む54人が死亡し、651人が負傷した。犠牲者の1人、イタリア陸軍のマリオ・フラスカ上級伍長(享年32)は11年9月23日、西部ヘラートで死亡した。
「兄はアフガニスタンで死んだ45人目のイタリア兵だ」。弟ビンチェンツォさん(32)は首都ローマから300キロ近く離れた故郷、プーリア州フォッジャで語った。「海外で兵士が死んでも、もう誰も話題にしない。つらい思いをする遺族が増えるだけだ」
イタリア政府は当時、アフガン派兵について「平和的な復興支援」と説明していた。だが、母アンジェラさん(56)は「安全な場所とはとても思えなかった」。
「自動車で基地の近くを走行中、正体不明の障害物を避け、道路から外れた」。軍から遺族に伝えられた死因は「事故死」だった。フラスカ氏を含む3人が死亡、2人が重傷。軍広報官は「戦闘での死亡ではない」とコメントし、事故現場の写真など死因をめぐる詳しい資料は遺族に開示されないままだという。
◇ ◇ ◇ ◇
きょうは「沖縄慰霊の日」です。以下に「公式ガイドブックひめゆり平和祈念資料館」から、体験記録を紹介します。
◇糸洲第二外科壕脱出 17才 師範予科3年 第2外科勤務
薄暗い細道でしたが、途中で見た光景が、本当に凄かったですよね。まず驚いたのは、子供をおぶった女の人です。手を伸ばして死んでいましたが、背中には子供がこれも血まみれになって死んでいたんです。
道は死人でいっぱいなんですよ。兵隊もいるし…。でも住民がはるかに多い感じでした。近くに水飲み場があると聞いたので行ってみたら、そこも折り重なるようにたくさんの死体ですよ。ちょっとした水たまりはありましたが、血の水なんです。生血の臭いがするんです。飲むのはやめて、ここも危険だと逃げるように通りすぎました。
しばらく行くと、門のところで大きな男の人が万歳をするかっこうで亡くなっています。兵隊さんでした。またびっくりしてそこを過ぎたら、こんどは石垣の角にうずくまってね。艦砲を避けようと隠れていたのか坐ったまま死んでいました。そこでちょっと行くと、両足ともどこに吹っ飛んだのかわからない死体です。そのような目も当てられない状態でしたね。
◇ドラム缶のようにふくれた死体 17才 師範予科3年 第2外科勤務
衛生兵の合図で一人づつ間隔をおいて、糸洲壕を脱出しました。外に出ると3名で待ち合わせて、伝令で行ったことのある山城の本部壕をめざして夜道を走りました。昨日までの道とはまるっきり変わっていました。それに足を踏み入れる所もないくらいたくさんの死体がころがっていたんですよ。ドラム缶のように大きくふくれあがっているんです。腐ってすごい悪臭のする死体が、ずっとどこまでも続いていました。
とにかく必死に駆けてやっと山城に着きましたが、もうそこも同じように、死体だけがたくさんころがっていたんです。
◇山城本部壕が艦砲でやられた 19才 師範本科1年 本部勤務
山城本部壕に艦砲の直撃弾が落ちたのは、6月14日でした。壕入口に出ていた病院長を始め歩哨兵や衛生兵が瞬時に吹き飛ばされました。
隣の新垣さんの顔を見てまたびっくり。顔に肉片がベタッとくっついています。「貴方、顔をやられている!」といったら、彼女はあわててそれを払いのけたんです。肉片は炊事していた兵隊たちのものでした。
「病院長がやられた。兵隊も学生もやられた」という声で、西平先生の後を追い壕入口に出ました。安座間さんはもう板の上に寝かされていました。手の指も切れ、お腹もやられ、息するたびに、腸がブクッブクッと飛び出すんです。
◇フミさんの顔が無くなった 18才 師範本科1年 第1外科勤務
3人が山城の丘に着いた時には夜が明け、隠れる壕もありません。陸からは迫撃砲、海からは艦砲で、生きた心地もしません。そのときの攻撃で、比嘉さんは即死。宮城さんと私も負傷しました。
それからどのくらいたったでしょうか。耳をつんざく爆発音とともに、凄い爆風に叩きつけられました。ハッとしたとたん、私の膝を枕に眠っていたフミさんがスーッと立ち上がり、バタッと前のめりに倒れたのです。見たら、頭のてっぺんをえぐり取られ、表皮はたれさがり、顔が無くなっているのです。
私はあわてふためき「やられた、誰か来て」と大声で泣き叫びました。そしたら隣にいた衛生兵が「静かにしろ! 騒ぐと叩っ斬るぞ!」と怒鳴ったのです。
◇顔がシャモジになった 16才 一高女4年 第2外科勤務
「待っていてね。私が軍医殿を連れてくるから。」知念さんはそのまま戻ってきませんでした。私の右隣にいた看護婦は、一言もなくスッと立ち上がったわけです。そしてクルクルと回ってバタッと倒れました。見たら、破片で顔を、鼻も目も口も何もかも全部やられていました。しゃもじみたいに平たくなって…。
もう一人、太った看護婦でしたが、その人はバサッとお尻を全部裂かれて、はじめは真っ白くしていたわけです。脂がにじんでいる感じです。しばらくしてその白いところからビューッと血が噴き出し、バタッと倒れてそのまま死んでしまって…。