6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
1945年 (昭和20年) 6月23日は、当時の沖縄守備軍の牛島司令官と長参謀長が自決した日で、この日が沖縄戦が終わったという区切りの日になっています。
沖縄の最初の戦争犠牲者は疎開学童でした。
1944年 (昭和19年) 7月7日、七夕。サイパン島が陥落しました。これを受けて、同夜の緊急閣議で、沖縄から本土に8万人、台湾に2万人の疎開方針が決定されました。
疎開はすぐに実施に移され、沖縄から引率教員を含む6000人の集団学童疎開が同年8月、9月の2ヶ月で完了します。その1944年 (昭和19年) 8月21日午前2時、疎開船3隻、護衛艦2隻の船団のうち対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。沈没海域は、奄美大島と屋久島の中間、トカラ列島悪島付近です。
沖縄戦の犠牲者第1号が、集団学童疎開船「対馬丸」でした。対馬丸記念館の最新データによると、犠牲者総数1788名。うち学童784名、訓導・世話人30名です。
つづいて1944年 (昭和19年) 10月10日、朝6時30分に那覇が大空襲に見舞われました。その日は午後6時まで計5回にわたって大空襲がつづき、那覇市は完全に焼け野原になりました。
1945年 (昭和20年) 1月31日、新任の島田叡知事が沖縄県に着任しました。すでに沖縄は米軍上陸に備える対戦準備で騒然としていました。沖縄人事を辞退せず、承知の上で覚悟をもって県知事に着任し、沖縄県民のために命を捧げた人として、島田知事は歴史に刻まれています。
しかしきょうは、米軍上陸(4月1日)が目前にせまった沖縄で、持ち場を放棄して沖縄から逃亡した人たちがいたことを下に紹介します。出典は「沖縄戦記 鉄の暴風」沖縄タイムス社刊、初版は1950年8月15日です。
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「沖縄戦記 鉄の暴風」27ページ
三月二十二日、最後の疎開船が決死行を冒して出発の予定であったが、その日の空襲に見舞われて撃沈され、ついに島外疎開も終幕を告げた。こうして疎開した住民ほ、三月上旬までに、約六万を数えた。住民の本格的疎開と相まって、役人、指導者の中には、出張の名目でこっそり死の島を脱出する者が増えた。
伊場内政部長は、住民に配給する乳幼児用ミルクを携げて島を抜け出たまま、再び帰任しなかった。それを皮切りに、西郷衛生課長が、疎開船で無断に脱走を企て、沖縄聯隊区司令官、吉田大佐が、「沖縄などに敵が上陸するものか」と、云い残して、飛行機で本土へ飛ぶなど、県庁員、医師、学校長が、ぞくぞく島を後にした。
二月上旬、島田知事は、本土にいる伊場内政部長から「病気で静養中につき、すぐは帰任できぬ」の、電報に添え、「海軍々令部を始め、沖縄出身の親泊大佐(大本営参謀)、渡名喜大佐の話では、敵は沖縄上陸の企図はいささかもなく、国頭疎開は、即時中止しても良い」という情報を受けた。
明らかに、自らの逃亡を糊塗する、伊場内政部長の心底を見抜いた島田知事は、逃避者の非を鳴らす部下達の怒りをなだめ、伊場の情報を握り潰して、住民の国頭疎開を急がせた。「沖縄に敵は上陸せぬ」……それほ、危機一髪のところで、死地を脱していく役人や、軍人が、島内に踏み止どまる人々に対する、最後の、苦しい、云いのがれであり、あいさつの常套語でさえあった。
「去る者を追わず」島田知事は、ひそかに、居残る部下を励ました。その頃二月二十三日、二十四日の二日間に亙り、米艦載機群が、久し振りに、本格的空襲を、沖縄に加えた。それに相ついで海岸偵察機が頻々と飛び、この情勢から推しても上陸は必至である。「米艦隊は補給を終え、続々、ウルシー島に、次期攻撃のために、集結中」との情報もそれを裏書きした。
軍司令部では、住民の処置に、頭を悩ました揚句、島内疎開を強硬に主張し、県当局は、これに応えて一段と拍車をかけた。軍に直接協力できぬ、十七歳以下、四十五歳以上の、老幼婦女子は、即時国頭へ立退けの、命令が下された。
県庁の、疎開呼掛けは、畑で耕作中の、農夫を掴まえて、「何故国頭へ行かぬか」と怒鳴るほど、強圧的となり、うろたえ騒ぐ人々は、唯厳しい当局の命に追いたてられるようにして、北部国頭への移動を開始した。
住み馴れた家や、畑を捨てて、屈強な男の庇護もなく、子を負った可弱い女たちが、手車に、足腰立たぬ、老人を乗せ、飢えに泣く子を叱りつけながら、両手に幼児の手を引いた人々の群が、鍋釜類や、わずかな食糧を抱えて、国頭目指して、移動していった。
米軍上陸直前までに、約八万五千の住民が北部へ移り、約二万五千人は義勇隊となって南部に止どまり、軍関係の各部署へ配置されたが、約十余万の住民は依然として中、南部に止どまった。
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(沖縄タイムス 2015年2月8日 05:30)
【 地に刻む沖縄戦 島田知事着任 住民に心寄せ「生きろ」】
それまでも決して良好とはいえなかった軍・官・民の関係が、10・10空襲のあと、いっそうとげとげしくなった。
第32軍司令部の軍首脳は、幹部宿舎の提供や慰安所設置などの要求に非協力的だった泉守紀知事に不信感を抱いていた。泉知事は、軍政が敷かれているかのような、軍の行政への介入を快く思っていなかった。
県行政は、知事の現場指揮のまずさもあって空襲被害から立ち直れずマヒ状態に陥っていた。沖縄での仕事に嫌気がさしたのか、泉知事は1944年12月に上京すると、知人に転勤を働き掛け、年が明けても帰ってこなかった。
内務省は、不協和音の絶えない沖縄の現状を打開するため、泉知事を香川県知事に転出させ、大阪府内政部長の島田叡(あきら)を泉知事の後任に発令した。
米軍上陸必至の沖縄に赴任するということは、死地に赴くようなものである。戦時下とはいえ、あまりにも残酷な人事であった。断ろうと思えば断れたはずだが、島田は断らなかった。
「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか」
留守宅に妻と2人の女の子を残し、身一つで沖縄に着任したのは45年1月31日のことである。
◇ ◇
軍隊の目的はあくまでも戦闘であって、「百事皆戦闘をもって基準とすべし」(作戦要務令)というのが日本軍の考え方だった。
だとすれば戦場において非戦闘員を守るのは誰なのか。
軍民混在の戦場で、目を覆いたくなるような悲劇が続発したのは、日本側に住民保護の視点が決定的に欠けていたからではないのか。
なぜ沖縄戦はこれほど多くの非戦闘員の犠牲をだしたのだろうか。確かなことは、沖縄が本土決戦の時間を稼ぐための「捨て石」と位置付けられていたこと、捕虜になることを禁じられ、「悠久の大義」に生きるよう玉砕を求められていたこと、である。
島田は着任早々、平常の行政事務を停止し、戦時行政に乗り出す。住民を疎開させ、疎開先で飢えさせないように保護することが戦時行政の重要な課題だった。
島田の下で疎開業務を進めた浦崎純は、戦火を避け昼となく夜となく北へ北へと移動する老人、子ども、婦女の長い列を見たときの印象を戦後、こうつづっている。
「もの悲しい情景だった。沖縄一千年史のどの頁にも、これほどもの悲しい情景はみあたらなかっただろう」(「消えた沖縄県」)。
疎開先の北部でマラリアや飢えのため亡くなった人は少なくない。本島南部に追い詰められた避難民だけでなく、北部に疎開した人々にも苛烈な現実が待ち構えていたのである。
本島北部への疎開者の数は、およそ15万人と推計されている。島田と荒井退造警察部長が音頭をとって疎開業務を進めた結果、多くの人々が救われたこともまた、疑う余地がない。
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首里の壕に陣地を構えていた第32軍司令部が南部への撤退を準備していたころ、島田は、軍首脳部に対し、「南部に撤退すれば住民が巻き込まれる」との考えを述べ、首里での抗戦継続を申し入れたといわれる。
その話が事実かどうかはっきりしないが、さもありなん、と思わせるものを島田知事は持っていた。南部の壕を転々としながら島田が見せた人間味あふれる行動と言葉は、今も多くの人たちによって敬慕の情を込めて語り継がれている。
県警察部職員だった山里和枝さんは、糸満市の轟の壕で「敵は何もしないから手を挙げて出るんだぞ」と知事に声を掛けられた。自分の死の近いことを意識しながら、職場の部下に、生きるんだよ、と軽く肩に手を添えて呼び掛けたのだという。
6月14日、県庁の解散を宣言して轟の壕を出た島田と荒井のその後の消息ははっきりしない。