長いタイトルですねぇ。名は体を顕す。本書の内容はこのタイトルに尽きている。1985年生まれ、東大大学院在籍中の古市氏が、社会学の大御所にして元東大大学院教授、上野千鶴子氏とこれからの介護について語り合う体裁。
すぐ読めるけど、自分の子供のような歳の後学に対して、上野氏の明快な(身も蓋もない)分析が面白く、かつまたわかりやすかった。
介護保険で介護を社会化した意義は大きく、再び家族介護には戻らない。家族は介護のプランを立てる当事者、介護保険は介護されるものの為ではなく、介護する者のため、制度を利用しつつ、親のお金も使いつつ、自分は仕事を辞めずにその時期を過ごすのが一番いいとの助言に、若い世代の古市氏が、うなずく様子が手に取るようだった。
20歳代ではまだ介護は現実的ではないし、親の面倒は見たくないけど、財産はしっかり残してほしいという本音も伺えて面白かった。漠然とした不安を抱えているけれど、何とかなるのではと先のことを考えないようにしているのが今の時代、介護される側、する側の実情だと思う。
制度はまだまだ不十分だけど、子供に何も残さない覚悟で介護の専門家にゆだねる流れはもう変わらないだろうと私も思う。
問題は延命治療。それは尊厳を持って死にたいという話ではなく、延命治療自体がものすごくお金がかかるので、家族に負担だということ。「昔は食べられなくなったら自然に死んでいたんです。今でも医師に連絡せず家に置いておけばそんな死に方ができる」。今の時代は自然に死んでいくのも許されない時代になったのだろうか。
もう意識がないのなら、生きていても意味がない。私は延命治療はしてもらわなくてもいい。残るものの都合にいい時にやめてもらえればいいんじゃないの。
昔は死はもっと身近にあった。私のささやかな経験だけど、小学校一年の時、隣のお祖母さんが亡くなって、お坊さんがまだ来ずに、なぜか私が呼ばれて枕もとで「白骨の御文章」を上げることになった。絣木綿の布団、お祖母さんの白髪、泣いている家族。。。。
人の死に初めて接して、「ああ、これが死ぬってことなんだあ」と子ども心にも納得した。生まれるのも死ぬのも、嫁ぐのも嫁を娶るのもすべて共同体の中の出来事。時間はゆっくり流れ、人は今よりゆっくり生きていた。
こんなこと言えるのは私が介護の苦労を知らないから。そして家で介護されるのも辛い。今の流れでいいんじゃないの。