妻の超然、下戸の超然、作家の超然から成る短編集。面白かった。くすぐるような、笑いを誘うような面白さではなく、人生の深淵を覗き込んで納得するような、気が付かなかったことを教えてもらうような面白さ。
この一、二年に読んだ小説では一番面白かった。
妻の超然、40代後半の夫婦。子供はなくて妻は年上の専業主婦、夫は若い女と浮気している。修羅場が展開されるわけではなく、妻は家にいて夫と女のことを冷たくじっと見ている。何も行動を起こさず、やがて夫は女と別れたらしい。能天気でバカな男だが、すでに夫婦としての気持ちは冷めているので、あえて別れない。
そうなんですよね。結婚って若い時は情熱で、中年には家庭を維持するための惰性で、そのあとは敢えて壊すほどではないのならこのままでという諦観で続いて行くもの。
下戸の超然。全くお酒の飲めない30前後の独身サラリーマン。日本社会は下戸に寛容でないので、割を食うことが多い。普通にしていても付き合いが悪いと取られがち。その上飲み会では複数の人を宅送する役割。
そんな男に同僚の彼女ができた。彼女はお酒を飲む。ボランティア活動をしている。誰も反論できない正義、それに前向きの不毛さを感じる男。彼女は結婚に憧れ、少しずつ距離が開いて最後は分かれる。その持って行き方が、無理がなくて秀逸。初めから別れるつもりで付き合う人はいない。それでも少しずつ生じてくる齟齬、人生ってこういうことの連続なんですよね。きっと。
作家の超然。著者を連想させる作家が肩口にできた良性腫瘍を取る。手術の前後に感じた周りの世界との違和感、静かな観察、皆が情報を発信する時代が来て、やがて小説というものも消滅するのではという暗い予測。言葉は意味をなくし、やがては擬音のような断片にまで解体されていく。考えてみれば恐ろしい世界。
すべて物事には始まりと終わりがある。小説が人間の歴史のある時期に生まれてきたものであれば、いずれは無くなっていくものなのかもしれない。誰もが自慢話を発信して、言葉がハイパーインフレを起こし、ものすごく軽いものになればあるいはそうかもしれないが、私個人の考えとしてはお金の取れる文章とそうでない文章の差は歴然とある。
人が言葉で書かれた真実を読みたいと願う限り、作家の書く小説というのは細々とでも生き延びていくのではないかと思う。まるで核戦争や大津波のあとの原野にも細々と草が生え続けるように。でもそこまで考えさせたこの作品はやっぱりぶっ飛んでいると思った。
作家の対談はこちらhttp://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/466904.html