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南関揚げ

2013-05-18 | 日記

このところ珍しいものを次々いただきますが、昨日は九州名物の南関揚げというものをいただきました。

見た目は揚げのようですが、揚げかすを平たく成形したような感じ。触るとぽろぽろと砕けます。

http://www.town.nankan.lg.jp/meisan/pub/detail.asp?c_id=48&id=4&mst=2&tmst=

いろいろな煮物、味噌汁など応用範囲は広そうですね。

取り敢えず、ワケギ和えに入れました。ふわりとした触感で、何にでも合いそうです。木の芽は余計でしたね。

敷物は自作。模様が複雑で織るのに苦労しました。


 

 

最近は少しずつ涼しげなお皿を使っています。角皿は自分で絵付け。習い始めの頃なので稚拙です。小皿はそれに合わせてあとで買ったもの。7枚あるはずが普段使う4枚だけにして片付けたら出てこない。どこへ潜り込んだのやら。

絵変わりの皿は有田の柿右衛門・・・の隣の窯です。数年前、有田へ行って購入。また行きたいなあ。器大好き。


最近とみに物忘れがひどく、年寄り道まっしぐら。昼から買い物行くつもりで出かけ、途中で財布忘れていることに気が付いた。財布失くして何事もならず。引き返したらちょうど夫が車で出かけるところなので便乗して中心部まで。

ズボン二本(最近はパンツというらしい。昔のパンツはショーツ、トランクスなどに細分化。でも私たちの年代だと、人前でパンツというのはやや抵抗あり)、Tシャツ二枚。久しぶりにそごう、福屋、本通りを歩いて都会の風に吹かれてきた。

明日は雨の予報。先週は孫とお嫁さんが来て、夜は息子もやってきて賑やかだったけど、明日は予定なし。冬物もあらかた片付いたし、久しぶりにのんびりできそう。

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「末裔」 絲山秋子

2013-05-18 | 読書

都の職員省三は、世田谷の静かな家に一人で住んでいる。結婚した息子には子供がなく、娘は母親ががんで死んだあと家を出たきり寄りつかない。

家は荒れ、次第にゴミ屋敷になる。ある日家に帰ったら、鍵穴が消滅していて、入れない。ホテルに泊まり、鎌倉の今は空き家になっている叔母の家に勝手に入ったりしながら、役所勤めだけは続けている。

家庭がなくなり、一族がバラバラになり、子供もの代で自分の血脈も終わりになるという寂しさと投げやりな気持ちを抱えたまま、あちこちをさまようしかない省三。

鎌倉で知り合った人の家に招待され、古都で静かに暮らすインテリの老人が、偶然、省三の父親と同時期に東大で教官だったことを知る。人のつながりと古き良き時代の教養主義が懐かしく、ふと自分の家系のルーツである長野県の村を訪ねて、神社に刻まれた名前にその手がかりを見つけて納得する。


 

希望はないのか。長くアメリカで研究生活をしていた弟と部下の女性の結婚、娘との再会と、かすかな再生の希望を作者は準備しつつ、最後に省三を家へと向かわせる。窓を破ってでも家に入らなければならない。その前に庭に、下着の形の花を咲かせる木の花を摘まないといけない。自分は何をしているのだろうと、笑いたくなる。そこに再生の希望がある。

家族って、今の時代、多かれ少なかれ、省三の家族と似たようなものかも知れない。しかし、いつの時代にも「世は末だ」とか「人の絆がなくなった」とか「今の時代はわからない」という言説があり、それでも脈々とこの社会は続いてきた。途絶える家も栄える家もあるけれど、人が毎日をまっとうに生きていれば、それでいいのではないか。最後はそう言っているようだ。


 

と言うようにまとめてみても、この小説の魅力を説明したことにはならない。神は細部にこそ宿り給う。ディテールの描写の確かさは、荒唐無稽な導入部、変幻自在な乙と名乗る男、男に紹介されたホテルは今度行くと消滅している。現実にはそんなことは起こりようもないのに、今の時代の都会生活は人やモノとのかかわりもそれと近いほどの希薄さだと思わされる。

読んだ後には自分の家系、夫のを振り返り、人にはそれぞれ理由があってそのように振る舞うのだから、むやみにshut outしてはいけないのだと思った。少しだけ自分の幅が広がったように思う。これは心だけにして、身幅は広がっていませんように。

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