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「西行物語」 桑原博史訳注

2012-12-19 | 読書

写真は京都、法金剛院。12月3日。1146年、西行はこの寺にいる故待賢門院の女房に追悼の歌を送る。


西行は平安末期の歌人。初め北面の武士として鳥羽院につかえ、歌詠みとしての誉れも高かったが、20代で妻子を捨てて出家、以後72歳で没するまで、各地に移り住み、また旅をしながら一生を仏道修行と和歌を作ることに費やした、いわば漂泊の出家にして詩人。その人の生涯を説話風に和歌を交えてまとめたのが本書。13世紀半ばにはできていたらしい。作者は不詳。

説話風なので、つじつま合わせの無理なところもあるらしいが、それを差し引いても、この中の、自然と自分の心の中をしっかりと見つめた短歌は、私にはとても魅力的だった。

それまでの歌が、ややもすると様式を踏まえた知的なゲームに堕していたのを、一気に建て直した人ではないだろうか。

妻子を振り捨てて出家するのが、何と身勝手なと腹立つけど、当時仏心を起こし後世を頼むことは賞揚されたのだろう。私のふとした疑問は、出家してからの生活費。高野山にいるころは何とかなったのかもしれないが、長い旅の旅費、宿泊費は?

托鉢?仕送り?全国共通の貨幣ってあったのだろうか。金の粒を袋に入れて持ち歩くとか。当時としては当たり前すぎて誰も書き残さないことが、後世にはいちばんわからなくなることもありますよね。

今、海外旅行でカード使って普通に買い物してるけど、何世紀か経ったら、21世紀の人は各国違う通貨で買い物不自由だっただろうなあと思われるかもしれないし、私はそのことが一番知りたい。

だって、どんな自由な暮らしにも、というか自由を求めれば求めるほど金銭的な裏付けがいると思うから。各地で歌を教えて旅費にするというのは芭蕉の時代ならともかく。。。うーーーむ、謎。

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さぬきの餡餅雑煮

2012-12-18 | 日記

そろそろお正月、お正月と言えば雑煮。

日本全国津々浦々、マクドにスタバが席巻するご時世でも、雑煮は別。年に一度はくらいは家に伝わってきたものを食べたいと思うのも人の常。私も若い頃はそんなこと思ってもなかったのに不思議ですね。子供の頃に擦り込まれた味覚は生涯変わらないものらしい。

日本全国、雑煮の分布はこんな感じです。

http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/zouni/zouni/zouni_map.html

で、私の実家のある香川県では、白みそ仕立ての餡餅の雑煮。この図で見ると、白みそは京都を中心にした機内と四国の香川、徳島の二県だけで、あとは全国的にすまし仕立て。白みそは少数派。

私達は、お正月には京の都の天子さんとおんなじ、白みそのお雑煮食べてたんですね。なんか優越感。まあ、それがどうしたのかという話ですが。

きょうはお雑煮作ります。

餡餅はいつも手に入るわけではないので、それも自家製。

お皿に水を少し入れて丸い餅を置きます。

電子レンジの温めモードにしたら膨らんでそれから平たくなります。そこに餡子を置いて

くるんで。お餅が小さくてちょっと失敗。

具は人参、大根、揚げが基本。トッピングは青海苔で。お餅を破きながら、汁と案を混ぜて食べるのがおいしい。

味噌汁のような、ぜんざいのような。澄まし汁ではこの目出度い感じは出ないと思うのけど、ほかの家族にはきわめて不評。きょうは夫が忘年会でいないので作ってみました。

ついでに残り物のリフォーム料理。

餃子の皮を耐熱容器に敷いて、昨日の残りのオムレツの具を入れます。

上にさらに一枚。飾りのつもりで切り込みを入れます。

電子レンジで3分、皮に熱を通し、さらにオーブンにして3分。焦げ目をつけました。うーん、餃子でもなし、ミートパイでもなし。ややビミョー。


 餡餅と言えば、三男に、結婚したいという相手を紹介されたとき、「父の実家は香川県ですから」(後にお母さんも香川県出身と判明)と言うので、「じゃあ、お宅はお正月に餡餅の雑煮食べてるの」と聞く私。「はい」と答えるので、同郷人にあったみたいに嬉しかった。

かねがね息子が、社員食堂の味噌汁が口に合わない。アサリの味噌汁が真っ茶色でアサリが見えない。とぼやいていたので、母は一安心。きっと口に合うものを食べさせてもらっていることでしょう。

お正月に食べるものは、昔は御馳走だったはず。普段の食べ物が贅沢かつworld wideになったから、今となっては相対的に地味な食べ物になってしまったけど、年に一度だけは食生活の古層が現れるということで。。。。

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ゴミから1,000万円!!

2012-12-18 | 日記

クリスマスツリーです。こちらでお借りしました。http://www.wallpaperlink.com/bin/0612/02926.html


きょうは午前中古文書のお勉強。先月ドイツ旅行で休んだのでどこまで進んでいるのか不安。木曜日が今年最後の集まり。

今度はある家の幕末の日記。昔の人は儀式中心、神仏にもよくお参りするし、親戚同士もよく行き来する。人が来たら酒食でもてなす。など今の人とだいぶ行動様式が違う。

お酒を出すのが最大のもてなしだたんだろうなあ。どんなお酒?清酒じゃなくてどぶ酒みたいなもの?1946年に結婚した私の両親の式では、密造酒のような白く濁った酒だったそうで。


ぼんやりニュース見てたら、ごみ処理施設から1,000万円!!どこの話かと思っていたら、この私も年にに三回は車運転して大型ゴミを捨てに行く施設。びっくりした。あそこは搬入のとき申請書を出すから、個人だと特定できるけど、市の収集車が回収した分なら誰のお金かわからないかも。

でもどうしたんでしょうね。箪笥預金していて忘れたとか。おばあちゃんが亡くなって、気が付かないまま遺品の整理してしまったとか。。。。

早く持ち主に帰るといいですね。

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ちょっと嬉しいこと

2012-12-17 | 日記

写真は昨年11月、京都駅で。

光源氏はいつも当代一の美男子の役。長谷川一夫・・・沢田研二・・・東山紀之・・・生田斗真・・・次は誰?


昨日息子がきたので、買っておいた孫娘へのクリスマスプレゼントを言づけた。

さっきお礼のメールがきたので、年末の私たちの予定を言って都合のいい時においでと返信したら、山登り気を付けて行ってきてくださいと再びメールが。

まあそれだけのことなんですけどね、なんか嬉しかった。そんな何でもないことにしみじみとする年の暮。

息子一家は家族仲良く暮らして、何事もなく年月を重ねて行ってほしいもの。

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金融緩和と原発

2012-12-17 | 日記

写真は昨年、京都で。


衆議院選挙の結果、政権がまた元の自民党に戻った。いろんな考えの人がいて、利害もいろいろだけど、今度の政権、私の懸念することは二つ。

一つは金融緩和。利下げして、市場にお金をたくさん供給し、物価が上がればデフレは収束すると今度総理になる予定の人が言ってましたけど、ほんとかな。

働く人の給料が上がる前に物価が上がってしまったら、却って生活苦しくならないですか。日本全国、特に若い人の働く場所がないんだから雇用を安定する政策をいの一番にやってほしい。

「お金をじゃんじゃん刷ったら経済は回復する」なんて、めちゃくちゃな話である。生産力、購買力が上がらないのに紙幣だけが出回ったら、第一次大戦後のドイツみたいに荷車いっぱいのお札で買い物行く。。。というのは極端だとしても、給料や年金だけが収入源の人は生活が苦しくならないですか。

ユニクロ、しまむら、百均、スパーのオリジナルブランドまで値上がりしたら困ります。

単純で分かりやすいことを言う指導者は要注意、私はそう思っています。


 

原発は再稼働に舵を切るんでしょうか。最悪。今は大飯原発しか動いてないけど、多くの国民の反対を押し切ってまで再稼働するとしたら、原発を動かすことでとても儲ける企業や人たちがいるということでしょうね。原発が始まって以来、ものすごい額の利権があるんでしょうね。想像ですが。

巨額のお金の力で、反対する人をなぎ倒してきた。原発があるような寒村の人間は、普段は交付金で手なずけ、事故が起きて、その地区は住めなくなっても、日本全体のために我慢してほしいということなんでしょうか。

これって太平洋戦争末期に海外在住の民間人や沖縄島民を切り捨てたのと同じ論理。多分そういう流れになるんだろうと思って、きょうはパンと味噌、ワイン、ビスケット、野菜各種を買い、郵便局にも行く途中でものすごく腹立ってきた。

核のゴミの持って行き場がないのに、遠い未来まで見据えた政治家を持たないこの国って本当に不幸だと思った。


 

拉致問題は民主党の時には何の進展もなかった。政府はパイプを持ってないんだと思う。

どんな細い伝手でも手繰り寄せ、相手の真意を地道に聞き出し、こちらの条件も示し、人道的な立場から、政治を超えて解決する道筋はないのかととても歯がゆく、私は思う。とても難しい外交交渉、でも国はそれをやらなければならないと思う。

政治主導としても実務は官僚がやるんだろうか。素人にはよく分からないけど、外務省には今までの情報の蓄積もあるはず。それをうまく利用して、早く再開してほしい。


 

付けたしで、某政党の漫画的顛末。首相がだれになるか実質決まっているので、首班指名の候補をわが党から出さなくていいという珍説。いゃあ、それならなんでわざわざ別の党を作ったのか、根底からひっくりかえるような話でしょうが。

その党首たるや「硬直した官僚制度の打破」なんて言っている。官僚制度はまあいろいろ問題あるらしいけど、政治家の言いなりにばかりなるのも如何なもんでしょうか。あの人たちは法律に基づいて仕事してるんだから、いきなり変えようとしたって無理。

国民の「高級官僚ってなんか得してそう」という漠然とした妬みの心におもねるのがさもしいってことです。今の日本をいいように持っていくのはそんなことじゃダメなように思います。不勉強なおばさんの想像ですが。

人口が減り、産業も衰退する。それは仕方ないことかもしれない。国の仕組みをそれに合うように作り変え、贅沢できなくても最小限の暮らしは保障された暮らしいい国になってほしいものです。

とまあ、こんなことクドクド言ってもどれだけの人が読んでくれることやら。

 

 

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可もなく不可もなく

2012-12-17 | 日記

普通に暮らすのが何よりの幸せ、そう思う年の暮。今年もいろいろあったけど、無事終えられそう。結構でした。

今年の我が家のニュースいろいろ

三男結婚。長男転勤と引っ越し。私、ドイツ旅行。夫、山旅たくさん。次男もいろいろあったけどここには書かない。

長男のお嫁さんもいいことがあったけど、ここには書かない。お姑さんも実母も元気。これが何より。

交通事故が怖いので、しばらくはどうしても必要な時以外は車に乗らない。お金も時間もかかるけど、事故は怖い。

亡くなり方も悲惨。

昨日は長男が自転車で本を取りに来たので、事故に気を付けるようにとクドクドと言う母でした。

半月くらい前の孫娘。お嫁さんが、車に中に靴があると言うので、スリッパでスーパーへ連れて行く。夜9時くらいでお客さん少なめ。「楽しいねーーー」と言いつつ、走り回っている。

クマのぷーさんのスリッパ。上着はママが娘時代インド旅行した時の羊の毛皮のジャケット。縁取りはラクダかなんからしい。お姉さんの子供へのお土産だったのが回って来たとか。

いつもお下がりの服が多いかな。お下がりけっこう。愛情と人のつながりの中で育つものこそ幸いなれ。

ジジババは元気に走り回る二歳児に付いて行くのも大変。

服の好き嫌いが激しい。うちの息子たちはこの歳ではまだ親の着せるものを黙って着ていた、というか自分が着ているものにまで気が回らなかったのに。

コートをどうしても着ないと頑張るので半纏代わりに着ていた私の絞りの羽織を着せると、「長いねぇーーー」と喜んでこの姿でチャイルドーシートに載せられて帰って行った。

「じいたん、ばあたん、また来るね」と手を振りながら。愛想いいなあ。息子が自分も保育所へ入ったら社交性のある人間になったと羨ましがっているらしい。それはあんたのキャラやろ。


 

ドイツワイン各種。向こうのは三越のドイツ展で買ったフランケンワイン。ドイツでは瓶の形から、雄羊の殖栗というあだ名があるそうです。ドイツ展は確か今日までのはず。

手前は燗して飲むグリューワイン。こちらゆめタウンの輸入食材の店で購入。砂糖少々にハーブ入り。養命酒とワインの中間みたいな味。燗すると不思議と体が温まる。ドイツではクリスマス市に立ち飲み用としても販売されるとか。ドイツの冬、寒いですもんね。

クリスマスに飲むつもりだったけど、もうほとんど飲んでしまった。


 

陶磁器の絵付け教室で。先生のアトリエはとっても居心地がよくて、お茶も出していただいて幸せ。向こうのカップは先生が絵付けをされたもの。

先生と友人と一か月に一度、楽しく語らい、いろいろなことを知り、元気をもらう。日常生活をいっとき忘れて、楽しく過ごす。高級住宅街の一角。家も庭もセンスが良くて、たまに行くと自分も少しグレードアップした気になる。

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クリスマスの着物

2012-12-16 | 日記

前のブログでは盛んに着物着てたんですが、こちらでは初めて。

きょうは暖かくて、選挙の後、二階も下も片づけたので着物でも着ようかと。。。。

百亀甲の手織り本結城(うわっ、自慢くさっ)に木綿のクリスマス柄の染め帯。麻の葉柄の足袋など出してみました。

本結城とは申せ、そこはそれ極貧着物生活がモットーの私。ネットでリサイクル品を買い、自分の寸法に縫い直したもの。和裁師の方がいいものだと褒めてくれたのでそれを信じよう。

結城は大島と違って暖かいです。セーターみたいな手触りも手織りならでは。と自己満足。

この場合、とても地味に見えて分かる人にだけ分かるというのがキモ。でも家で着てます。外へ着て行って人にあれこれ言われるのが嫌。言われなくても思われるのが嫌。二、三年前、どこへでも着物で行っていたらいろんな人にいろんなこと言われた。好意的な意見より、批評されることが多かった。ご本人は全く着物を着ない、着られないにもかかわらず。

深く傷つく私。着物は人のネガティブな感情を刺激するのかと、当時は落ち込んだりした。今は気に入ったものを家で着ている、この満足感。それだけですね。久しぶりに着たのでもたもたして20分くらいかかった。やれやれ。

上からコートを着る。半襟は親の絞りの羽織を再利用。白い半襟は外出のときだけ。

コートの柄。濃いグレー地に白と赤の絞り。絞りは暖かい。

これは九月に名古屋へ行ったとき、大須商店街のコメ兵で買った。樟脳の匂いがきつくて、半月くらい屋外で陰干ししていたら取れた。ちょうどリニューアルオープンした後で、セールしていた。昔の四角な襟でなくて着物と同じ打ち合わせが着やすいように思う。

お腹周りが、つまりは体幹が暖かいので、寒さは感じない。

着物はたくさん持ってるので(呉服屋へ入って買ったのは皆無。もらい物やネット、フリマ。300円の小紋を今度ご紹介します)、追々着て行きます。

ドイツへ着物で行けばよかったのにと言ってくれる人がいたけど、時間に追われるツアーはちょっと厳しいかも。着物って案外重くて嵩もあります。そのぶんお土産たくさん買った方が楽しい。

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過ぎた冬の日に

2012-12-14 | 日記

昨日の枝垂れ白樺全景。ネルトリンゲンの城郭の外に観光用の駐車場が。

そこから街の中へ歩いて行きます。秋の終わりの黄金色の落ち葉です。


きょうは織りのお稽古に電車とJRと徒歩を組み合わせて1時間かかった。しばらくはどうしても必要な時以外は車に乗りたくない。**ちゃんに何もしてあげられないので、せめてこんなことでもしておきたいだけ。


 

私は今の時期はとてもよく遊んだ。そのことを以前息子に自慢しておいたら、高三で成績が下がって注意したとき「お母さんなんか高校のとき遊びまくって癖に」と反論されたことがある。何も言い返せない私。すんません。

今の時期だとクリスマス会ですね。文化祭の準備で一月くらいほとんど勉強してないのに、二学期の期末試験が終わると早速クリスマス会の準備。これはクラスもクラブも。それから親しい友達と我が家かまたは誰かの自宅と、最低三回。うわあ、今の私よりずっと豪華。

クラスだと10日くらいの準備期間。担当を決めて、プログラムを作って、お菓子を仕入れ、小さなケーキは注文で特別にクラスの名前を入れ、とみんな大忙し。

終業式の午後、教室が会場。クリスマスツリーはH君が親の山から切ってきたモドラ(標準和名はネズミサシ。南国にはモミなんて気の利いたものはありませぬ)、数本切って来たので廊下を引きずって営業に歩いていた。当日はどこのクラスも同じような会を開催。

ツリーの飾りつけ担当のKクンが「お母さんから貰った」という縦20センチ、横8センチくらいに切った脱脂綿を薄く剥がして、ピラ~ピラ~と枝の上に載せている。それを見たIさんが慌てて引きはがしてもっと小さくちぎって載せ直す。

そう、私達より上の年代の方ならそれが何に使うものかご存知ですよね。昔は薬局に普通に売っていて、女性のいる各家庭に常備してましたよね。わからない方は田舎のおばあちゃんや地区の古老(女性限定)に聞いてみてくださいね。

ものが目の前から消えてなくなると、記憶もなくなるといいます。脱脂綿は漏れやすくて大変でした。クリスマスの話から大きくずれてしまったけど、きょうはふとそんなことを思い出したのです。

箸が転げてもおかしい年頃、Kくんのキョトン?とした顔がとてもおかしかった。。。。Kくんはのちにさる都市銀行の偉い人になったらしいけど、それは知らないので、私にとってKクンと言えばそれはもう脱脂綿。脱脂綿しかない。ごめんKくん。

そうそう、Kくんはそのあと付き合い始めた人の親友で、何回か三人で会った。今思ったら、変なの。変だけど、その時はそうだったんだから、深くは考えない。

それにしても、こんなつまらないこと、いつまで憶えているんでしょうか。昔のことほど記憶が鮮明なんて、年寄りの王道、まっしぐら。

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脳死移植について

2012-12-13 | 日記

ドイツのネルトリンゲンでこんな木を見ました。Hängebirke 直訳すると垂れ下がった白樺。

日本では見たことないけど枝垂れ白樺とでも名前を付けましょうか。なかなかに優美。


知人の子供さんが急死して、家族全員で話し合い、脳死臓器移植を希望したとか。この場合、家族が言わない限り病院側からはいっさい持ち出されないんだとか。(すみません、たまたまご本人のブログを読んでいて知ったのです。)

たとえ体の一部でも誰かの中に生き続けて欲しい、なるだけたくさんの臓器を活用してもらいたいと考えたそう。それは他人の為でなく、自分たちのためだったと。

事情があって、今は私の方からお付き合いを遠慮しているけど、その気持ちに打たれた。うちの子供とは一歳違い、二人の赤ちゃんをその人と遊ばせた遠い日を思い出した。あの可愛い姿を、私の生きている限りは覚えておこうと思った。

二年前に法律が変わり、本人がはっきりと脳死移植を希望しないと免許証や健康保険証にでも書き残していない限り、遺族全員の同意があれば脳死臓器移植ができるらしい。臓器移植の垣根が低くなったということだろう。

自分がもし脳死判定されたら・・・どうするかな。。。。

一つだけ引っかかる。麻酔をかけず、かけていてた場合はやめて内臓をいい状態に保って、血圧も上げて移植するそうな。たとえ生き返らなくても、麻酔をかけずに臓器を取り出す痛みを脳は感じないのかしら。それを感じないから脳死なんだろうけど、うーーーむ、周りに情緒的な人間が一人でもいて反対すれば、移植は難しそうですね。

その子供さんは、二回にわたる脳死判定の間に臓器の状態が悪くなり、結局腎臓二つと角膜だけが取り出されたという。

年寄りの臓器よりは若い人の方がいいに決まっているけど、夫は、自分のは使えるものは全部使ってほしいとか。私はそれでもいいけど、たとえ死後でも、お腹の脂肪が他人様に見られるのが恥ずかしい。この先もあまり人助けもしそうにないので、いつか来る脳死臓器移植に備えて、ここはひとつダイエットでもしますか。

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「江戸・東京の中のドイツ」 ヨーゼフ・クライナー

2012-12-12 | 読書

写真はポツダムのツェツィリンホーフ宮殿。ポツダム会議が開かれ、日本の戦後処理を決めたポツダム宣言の出されたところ。


著者は1996年の出版当時、ボン大学教授で、日本文化研究所長を兼務していた民俗学者。この本は第一次大戦後までのドイツと日本の交流史である。

近世の日本はドイツとは交流がなかった。この本ではヤン・ヨーステンのオランダは当時神聖ローマ帝国の領土だったからドイツ人というのはちょっと苦しいけど、ドイツ出身の大砲鋳造師が17世紀に、オランダ商館長と江戸へ来てデモンストレーションをしたとか、ワーヘルという人が、オランダ東インド会社を通じて有田の陶磁器をヨーロッパへ輸出したとか、ささやかな例ではあるが、オランダを仲立ちに、ドイツ人が日本へ来ることもあったことを知った。

逆は全然なかっただろうけど。

いちばんびっくりしたのは、シーボルトが持ち帰った柳亭種彦の「浮世形六枚屏風」が、出版から二十数年後にブッツマイヤーという人により、ウィーンでドイツ語に翻訳出版されたこと。本は前半ドイツ語、後半は元の本そっくりに木版による本文と挿絵が再現されたこと。

それはヨーロッパ人のエキゾチズムをいやがうえにも掻き立てたことだろう。

幕末に開国すると、多くの外国人が日本にやって来る。お雇い外国人は何となく、イギリス、アメリカと思いがちだけど、ドイツは19世紀には世界一科学技術の発展していた国で、アメリカ人も多くドイツに留学している。森鴎外、斉藤茂吉の例を出すまでもなく、日本人もまたしかり。

ドイツ人も日本の大学に雇用されることもあり、極東へとわざわざやっさ来る人は志はありながら本国で所を得ず、冒険心と進取の気性に富んだ人だった。

ドイツと日本は第一次世界大戦では敵同士となり、日本は被害の割にはアジアでのドイツの権益を受け継ぎ、漁夫の利を得た形になったけれど、星一のように苦しい時期のドイツの学術研究に私財を割いて援助した人もいたこともこの本では触れられている。

一つの国の枠にとらわれず、珍しいものを見て、面白い経験をする。外国へと向かう心の基本はそういう人間本来が持つ好奇心だと思う。文化にはいいも悪いも、優れているも劣っているもない。多様性があるだけ。相手を尊重し、自分も素直にさらけ出したら、世界中どこへ行こうと怖くない。国際交流の先達たちはそう今の私たちにかたりかけているようだ。

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ドイツの木と花

2012-12-11 | ドイツ旅行

だいぶ日が経ってしまったけど整理してみました。

ポツダムで。白い実がいくつか集まって着いている。

Gewöhnlich Scheebeere  直訳すると「普通の雪漿果(しょうか=水分の多い小さな果実)」

英語だとGeneral Snowberryという感じ? 

和名はセッコウボク(雪晃木) シラタマヒョウタンボク 北米原産。日本でも寒い地方では園芸種として育てられてるらしい。道理で見たことないはず。ドイツで買った植物図鑑によると、花は小さく外がオレンジ、内側白。初冬の花壇で白い実がよく目立つので植えられるらしい。全草有毒らしい。ご用心。

最近は日本でも12月頃に切り花で売っているかも。見たいものです。


マイセンで Gewöhnlich Eibe 直訳すると普通の水松。

日本名はイチイ、シャクノキ、アララギ、オンコ。

この木も日本の中部地方から以北にはよく見られる木らしいが、私は2006年10月、長野県軽井沢町追分で初見。赤い実がきれい。中の種子が見えてるのは裸子植物の特徴。日本のイチイより葉が大きく、種子が見える穴も小さいように思う。寒い場所に適応しているのかも。


 

ハイデルベルクで。この街では庭木、垣根などによく見られた。

手持ちの植物図鑑にはGewöhnlich Waldrebe 直訳すると普通の森のツル、日本名はボタンヅルのみ掲載されているが、葉に鋸歯がないところを見るとセンニンソウの可能性もありそう。実の回りの毛も長くてやっぱりセンニンソウかも。

有毒のようです。

これは携帯画像で葉が不鮮明、残念。

とここまで書いたら疲れたのでいつかまた。と言ってももうあまり画像がない。枝垂れの白樺くらいかな。残念。 

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あまりに寒いので

2012-12-10 | 日記

昨日はずっと家にいた。11月分の経費帳に忘れていたのをつけ足し、とってもおいしそうなリンゴのお歳暮が届き、そのお礼をメールでして、あとはコタツで本読んで、テレビ見て、ネットもして、夕方ちょこっと部屋を片付けて、午前中一度だけ玄関の外へ出ただけ。夫は例によって趣味のスピーカー工作を自分の工作室でしていた模様。

こんな日って、ああ何もしなかったつまらない日と以前なら思ったけど、今はそんな日こそありがたいと思う。

ドイツから帰って24日経つけど、その間に孫とお嫁さんが5回、長男が1回来た。次男は離れて暮らしているけど、元気でやっているし、メールにもきちんと返事が来る。三男は先日の誕生日にお祝いを少し送ってやった。義母も母もおかげさまで元気でいてくれる。

忘れてた・・・自分と夫も元気だし。元気なのを忘れているのが一番元気だということでしょう。感謝しなければ。

こんなことはわざわざ書くことでもないけど、そんなことが続くことこそがありがたいのだときょうは思った。きょうはちょっとしたことを知ったので。

健康、仲のいい家族、必要なだけのお金とそれをもたらしてくれる仕事。それだけあれば充分。なくした時にそのありがたさが身に染みると思う。


亡くなることで連想したけど、故勘三郎さんが5歳くらいの時、映画に出ていたのを憶えている。黒柳徹子さんと共演していたような記憶が。とてもしっかりしていて、明るくかわいい子だった。謹んでご冥福をお祈りします。

テレビである歌舞伎役者が「勘三郎さんはいつも私をお手本にしてくれていました」と自分の業績を得々と語っていた。いつもあんな言い方をする人なので嫌な予感がしたけど、やっぱり。人が亡くなってそのコメントはないだろ。

私もついそんな言い方することが・・・ないはずだけど、気を付けたいなと思った。

勘三郎さんはこんぴらの金丸座にも出演していたけど、本当にあの小屋が好きだったのだろうか。ある歌舞伎役者は「救急車の音が聞こたりしてやりにくい」と言っていたけど。あの方なら、きっとそのことも楽しさに変えていたのではないかと思う。合掌。

金丸座 今年8月

 

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「びっくり先進国ドイツ」 熊谷徹

2012-12-09 | 読書

写真はニュルンベルク市内広場のマーケットより。ベル型のパプリカは食用ではなくリースなどの材料にするらしい。


元NHK記者で現在ミュンヘン在住のフリージャーナリストの書く、内側から見たドイツ事情あれこれ。

私が意外だったのは、ドイツ人の平均年収が日本人よりかなり低いこと。それでもドイツ人が豊かに見えるのは、外食しない、ブランド製品買わない、毎日必要な食品はとても安い(これは行ってみて実感)に加えて、家と旅行にお金かけるからだそうです。

時間外勤務というのもほとんどせず、夕方にはさっさと帰宅、家族の時間を大切にする。日本で言うと中規模な都市がほとんどで、家は日本よりも安いし、街中に公園は多いし、郊外は近いし、長期の旅行はイタリアなど地中海沿岸へ家族で行くそうで。いいですね。あくせく働いて、狭い家に帰る日本人がかわいそうになってきた。

合理的で無駄が嫌い、それはゴミになるような包装をしないことから始まって、原発廃止の決定まで、筋が通っていると私は思った。

自己主張はきちんとするけれど、困った人にはたとえ他人でも親切にするのは、日本も見らなうべきと私は思う。日本では身内、仲間内では居心地いいけど、関係ない人には警戒し、けっこう冷たいと思う。この本の中では、日本に住むドイツ人が、朝、駅で倒れた人をサラリーマンが何人もまたいでいる光景を見てショックを受け、日本そのものに嫌気がさしたのかドイツへ帰ってしまったという。

昨日会った私の友人は、以前一人でイタリアへ行ったそうだけど、道を聞いたらみんなとても親切だったそうで、英語のわかる人をわざわざ連れてきてくれたりもしたそう。日本人はここまで親切にできるだろうか。

それとドイツ人は筋金入りの戦争嫌い。有史以来ずーといろんな戦争を経験し、極めつけは第二次大戦の大量虐殺。平和なヨーロッパ、平和な世界を目指すドイツの努力をとても偉いと思った。

よその国を知ってこそ自分の国も見えてくる。たちまちは無駄な買い物をやめ、家の中はすっきり整理し、嫌なことは嫌とはっきり言って余計な人付き合いにも煩わされないようにすることかな。頑張ろう。

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祝・ランキング入り

2012-12-09 | 日記

 

写真はアムステルダムの空港で。記念写真用の椅子。中国人の方たちが賑やかに写真撮っていた。日本人はちょっと恥ずかしがり屋かも。こんな場面では。


このブログ開設66日目にして初めてアクセスがランク入りした。嬉しい。2万6千台とささやかだけど。

前のは放置しているけどいまだにこのブログよりたくさんの方が見てくれている。ありがたい。

でもこのブログはあまり頑張らないことにしている。あまりパソコンにかじりついていると疲れて具合悪くなるので、ほどほどにしないと。

以前3日ほど続けて午前3時ころまで起きてたら、疲れか何か猛烈なめまいと吐き気、3日も寝込んだ。ご飯が全然食べられなくて、というか水飲んでも吐くので、ベトナム産の蓮茶をストローで一口ずつ、あとは黒砂糖を齧ってカロリー補給して死なずに済んだ。←大袈裟な。

頭をちょっとでも上げると世界中がぐるぐる回るし、寝て天井を見上げると天井が落ちてくるように見える。でも実際には落ちずに途中で止まる。何度もそれが繰り返されて、本当に気分が悪かった。

夫の見立て「亭主に対して頭が高いからそういうことになる。いつも頭を低くしとけ」

私の反論「何も昨日今日頭が高くなったわけじゃあるまいし、そんなことは原因と違う」

などという不毛な言い争いをしておりました。

ただいま午前1:40。そろそろ寝ないと。

夜は年末近いのでささやかな額のお金の整理していた。ネット証券がどうしてもアクセスできず、仕方ないのでPWの再設定。別の証券会社の外国投信、いつの間にかネットの画面が変わっていて、探したりして時間がかかった。これから歳とるばかりだから整理しとておかないと。こんなことに時間取られるなんてストレスの素。

昨日は友人に会ってドイツのお土産を渡した。今度ヨーロッパへ行くときは誘ってと言われて、それは嬉しいけど、シングル部屋でないと寝られない私。さあどうする。夫とだって、旅館以外はたいていシングル2つ予約します。さあ、どうする。。。。

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西行断章

2012-12-08 | 日記

写真は吉野水分神社の桜。2005年4月。西行もこの地を訪れたという。


今頃の季節だったと思う。新古今所収、西行の例の歌・・・

「寂しさに耐えなむ人のまたもあれな庵並べむ冬の山里」

私、西行らしからぬ甘えた歌。なぜ今さらに人が恋しい?

相手、私の手紙に返して、耐えて耐えてその先で、同じ孤独を抱える人を求めている。自分を見つめる深い眼差しがないと、そこまでへは行きつかない。

私、そうかもしれない。定型に流れない新しい歌なのかも。

もしかしたら少しずつ春のきざす季節、二月頃だったかもしれない。そんな手紙を、昔の王朝人のようにやり取りしながら、もう一月後には県庁のあるこの地方都市を離れることだけは知っていた。そんな少年少女に西行の歌はいささか刺激が強かったかもしれない。

時は流れに流れ、記憶は雲散霧消し、その時の思いだけがふとしたはずみに蘇る。思いは心の中にあるはずなのに、山や川や花や紅葉の中に宿っていて、自分の心がそれに感応した時にだけ、まるでその時その場所にいるような強い感情を呼び覚ます。

そしてつぎに襲ってくるのは深い後悔。もっと他に言い方はあったのではないかしら。もっと近寄る努力をしてもよかったのでは。が、思いは行き場をなくして決してあの時のあの人には届かない。

いや、あの時だってそんなにたくさんのことはできなかったと思う。そして私はここでこう生きることを、その時々で選択しながら結局は選んだのだから。

西行って迷いの多い人だったと思う。それを正直に吐露できるのも才能。心の奥をじっと覗いている自我は、近代以降の人かと思うほど強くて新しい。出家したはずなのに、全く隠遁生活しているわけではなく、いろんな人と歌を詠みかわす。

何なんでしょう?この身近さは。

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