私が高校生の頃に建った小屋(農業用の倉庫)の外壁に張ってあるトタンが、三十数年の年月の経過によって、錆がひどくなり、一部においては指で押すと破れてしまう様な箇所も出て来た。
トタンも三十数年もてば、十分だろうと思い、張り替える事にした。
二階建ての小屋だが、一階の一部分だけは、三年前に息子と二人で、素人仕事で張り替えてみた。
その後、台風の影響による強い風に何回か遭ったが、素人仕事で張り替えたトタンも剥がされなかった。
今回張り替える部分は、足場の無い二階部分も含んでいるために、素人仕事では危険であり、無理でもあるので、大工さんに頼む事にした。
見積もりをしてくれた大工さんによれば、海岸べりの場所ではなかったので、潮風にもあたらずに、三十数年ももったのだろうと言っていた。
せっかく大工さんが来てくれるのだから、ずっと前から妻から言われていた、小屋の中の間仕切り用の壁も作ってもらう事にした。
父親は農業をしていたので、農業関係の機械や道具などを入れていた小屋だが、今では私たちや姉妹が他所で暮らしていた時のいろいろが、雑然と平面的に広げられている。
それらをきちんと整理、整頓するためにも、間仕切りをして棚を作って欲しいと、妻から懇願されていた。
足場作りの助手をしたり、低い場所のトタンを剥がしたりしながら、三十数年前の高校生の時に、麦わらぶきだった小さかった小屋が、鉄骨作りの大きな小屋に建て変わった頃のことを思い出した。
麦わらぶきだった小さかった小屋には、平面式の小さな乾燥機と、耕耘機やテーラーなどのわずかな農機具を入れるスペースと、稲わらや麦わらを入れるスペースがあり、道路端には柴や割り木を入れておくスペースがあった。
当時は、ご飯などを炊くのもかまどだったので、その煮炊き用の燃料として柴や割り木が必要だった。
母親は朝早くから起き出してハ釜で米をとぎ、それをかまどにかけて柴で火を焚き付けてから割り木をくべ、それから味噌汁を作っていた。
柴や割り木が燃えるにおい、ハ釜でご飯が炊き上がるにおいや味噌汁のにおいなどが、寝ている布団の中まで届くような、日常の毎朝の情景だったが、家庭や家族を感じる事ができる幸せな空間だった。
電気炊飯器や洗濯機、掃除機、冷蔵庫などの普及により、主婦の仕事も格段に楽になってきているとは思うが、そのような機器が無かった時代の農家の母親たちの主婦業は、大変だったと思う。
ほうきと雑巾での掃除、川の水での洗濯、薪とハ釜での炊飯、手縫いでの子どもの服の繕い、ほとんど人力による農作業と、全てをこなさなければならなかったのだから、過酷な重労働を強いられていた事になる。
そういう中で、愛情を持って育ててもらった事に対して、口では言った事は無いが、母親や父親には本当に感謝している。
父親には、感謝の言葉を言おうにも、既に二十年前に他界しているので、言う事ができない。
家は貧乏ではあったけれども、良い思い出がたくさんある子ども時代を過させてもらった。
小屋のトタンを剥がしながら、昔を思い出した。
豊田かずき
トタンも三十数年もてば、十分だろうと思い、張り替える事にした。
二階建ての小屋だが、一階の一部分だけは、三年前に息子と二人で、素人仕事で張り替えてみた。
その後、台風の影響による強い風に何回か遭ったが、素人仕事で張り替えたトタンも剥がされなかった。
今回張り替える部分は、足場の無い二階部分も含んでいるために、素人仕事では危険であり、無理でもあるので、大工さんに頼む事にした。
見積もりをしてくれた大工さんによれば、海岸べりの場所ではなかったので、潮風にもあたらずに、三十数年ももったのだろうと言っていた。
せっかく大工さんが来てくれるのだから、ずっと前から妻から言われていた、小屋の中の間仕切り用の壁も作ってもらう事にした。
父親は農業をしていたので、農業関係の機械や道具などを入れていた小屋だが、今では私たちや姉妹が他所で暮らしていた時のいろいろが、雑然と平面的に広げられている。
それらをきちんと整理、整頓するためにも、間仕切りをして棚を作って欲しいと、妻から懇願されていた。
足場作りの助手をしたり、低い場所のトタンを剥がしたりしながら、三十数年前の高校生の時に、麦わらぶきだった小さかった小屋が、鉄骨作りの大きな小屋に建て変わった頃のことを思い出した。
麦わらぶきだった小さかった小屋には、平面式の小さな乾燥機と、耕耘機やテーラーなどのわずかな農機具を入れるスペースと、稲わらや麦わらを入れるスペースがあり、道路端には柴や割り木を入れておくスペースがあった。
当時は、ご飯などを炊くのもかまどだったので、その煮炊き用の燃料として柴や割り木が必要だった。
母親は朝早くから起き出してハ釜で米をとぎ、それをかまどにかけて柴で火を焚き付けてから割り木をくべ、それから味噌汁を作っていた。
柴や割り木が燃えるにおい、ハ釜でご飯が炊き上がるにおいや味噌汁のにおいなどが、寝ている布団の中まで届くような、日常の毎朝の情景だったが、家庭や家族を感じる事ができる幸せな空間だった。
電気炊飯器や洗濯機、掃除機、冷蔵庫などの普及により、主婦の仕事も格段に楽になってきているとは思うが、そのような機器が無かった時代の農家の母親たちの主婦業は、大変だったと思う。
ほうきと雑巾での掃除、川の水での洗濯、薪とハ釜での炊飯、手縫いでの子どもの服の繕い、ほとんど人力による農作業と、全てをこなさなければならなかったのだから、過酷な重労働を強いられていた事になる。
そういう中で、愛情を持って育ててもらった事に対して、口では言った事は無いが、母親や父親には本当に感謝している。
父親には、感謝の言葉を言おうにも、既に二十年前に他界しているので、言う事ができない。
家は貧乏ではあったけれども、良い思い出がたくさんある子ども時代を過させてもらった。
小屋のトタンを剥がしながら、昔を思い出した。
豊田かずき