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関門橋

2007-03-29 23:02:09 | うんちく・小ネタ
Kanmonkyo2きょうは、商用で山口県へ。
帰路、壇之浦 S.A で昼飯を食べた。
この壇之浦 S.A は、関門橋の橋脚の真下に位置していて、
海峡を眺めるのにはうってつけのスポットだ。


ところで、関門橋。
わが九州と本州の間にある関門海峡のもっとも狭い部分である
早鞆ノ瀬戸にかかる大吊り橋である。


教科書ふうにいうと…

中国自動車道の終点である下関と九州自動車道の起点である門司をむすぶ
6車線の自動車専用道路橋で、1968年に着工し、73年に完成した。


現在のメインストリートは関門橋だけど、それ以前は関門トンネルだった。
そのことは、どっちでもいい。
関門橋着工の約100年前に、
この海峡にトンネル、もしくは橋を架けるべきだと断言した男がいた。
後藤新平である。


彼の発想は、当時としてはスケールが大きすぎて、時代の尺度につねにあわず、
「大風呂敷」と揶揄された。
しかし実際は、そのニックネームと相反して、
その実務能力は堅実そのもので、人びとの生活に密着したものだった。


特筆すべきは、台湾総督となった兒玉源太郎に抜擢された
台湾総督府民政長官時代の政策だと思う。


当時、欧米が搾取の対象としかみていなかった植民地にたいして、
後藤は、本国以上に徹底した調査事業をいおこなって現地の状況を知悉した上で、
経済改革とインフラ建設を進めた。
こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。
それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、
無理に変更すれば当然大きな反発を招く。
よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。


もちろん、これは植民地支配された側からみれば、泥棒の論理といえばそれまでだが、
当時の世界情勢を鑑みれば、単純に四捨五入すべき感性じゃないと思う。


話が、すこし脇にしれた。
この関門橋、もしくはこれ以前の関門トンネルが、
九州の経済にどれほど寄与したかは計り知れない。
今でも、決して豊かとはいえない九州経済だが、
数字の上では、オランダとほぼ同じ人口と GDP を誇っている。
明治時代に、この海峡を一瞥しただけで、
橋を架けるべきだといいきった後藤の発想は評価すべきだと思う。


僕たち九州人は、今でも台湾の知識層が感謝してる後藤の魂〈SOUL〉に、
せめて同じレベルのオマージュを捧げるべきだと思う。
それにしても、壇之浦 S.A のラーメンはマズイ。
九州エリアで、ここまでラーメンがマズイのもめずらしい。