内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

崇高なるものへの尊崇の念を呼び起こす星々の輝き ― エマーソンの哲学的まなざし

2014-12-09 09:08:30 | 随想

 エマーソンの処女作は、Nature と題され、一八三六年、三十三歳のときに発表された。このエッセイの中にその後エマーソンが展開する主要な思想的テーマがすでにはっきりと示されている。短いイントロダクションの後、本文は八節に分けられていて、それぞれ « Nature » « Commodity » « Beauty » « Language » « Discipline » « Idealism » « Spirit » « Prospect » とタイトルが付されている。 第一節 « Nature » の冒頭は次のように始まる。

 To go into solitude, a man needs to retire as much form his chamber as from society. I am not solitary whilst I read and write, though nobody is with me. But if a man would be alone, let him look at the stars. The rays that come from those heavenly worlds will separate between him and what he touches. One might think the atmosphere was made transparent with this design, to give man, in the heavenly bodies, the perpetual presence of the sublime. Seen in the streets of cities, how great they are! If the stars should appear one night in a thousand years, how would men believe and adore; and preserve for many generations the remembrance of the city of God which had been shown! But every night come out these envoys of beauty, and light the universe with their admonishing smile.
 The stars awaken a certain reverence, because though always present, they are inaccessible; but all natural objects make a kindred impression, when the mind is open to their influence. Nature never wears a mean appearance. Neither does the wisest man extort her secret, and lose his curiosity by finding out all her perfection. Nature never become a toy to a wise spirit. The flowers, the animals, the mountains, reflected the wisdom of his best hour, as much as they had delighted the simplicity of his childhood.

 天空から降り注ぐ星々の輝きは、私たちがそれを眺めるとき、普段身の回りを取り巻いているものから私たちを分離してくれる。大気が透明なのは、崇高なるものの恒常的な現前の感情を、天体を介して、人間に与えるためであろう。星々はある崇敬の念を呼び覚ます。それは、つねに現前していながら、到達不可能なもののままだからである。
 カントの『実践理性批判』の結語の冒頭の有名な一文を思いおこさせるような表現を含んだこの一節に表明されたエマーソンの思想もまた、私たちの生活の中に接近不可能なものとして現前する「今ここにはないもの」への志向性を有している。エマーソンの文章は、私たちの生活の中にいつでも現前し開かれている崇高なるものへの「垂直的脱自」の契機に生き生きとした表現を与え、読む者をそのような経験へと鼓舞する力を持っている。









アメリカ・プロテスタンティズムにおける社会順応主義批判の淵源の一つ ― トクヴィルからエマーソンへ

2014-12-08 12:41:14 | 随想

 トクヴィル自身はノルマンディー地方の由緒ある貴族の生まれで、フランス革命時に一族の主だった人々は処刑されてしまった。革命の十六年後に生まれたトクヴィルは、自分が没落階級に属していることをはっきりと自覚しつつも、その階級にこそ見られる高貴な個人主義を家族内でまだ肌身に感じることができた。そのような家庭の空気は、決定的に失われつつある「今ここにはなきもの」への癒しがたい思慕の情をトクヴィルの心に疼かせたであろう。しかし、他方では、その「今ここにはなきもの」の自覚が、台頭しつつある新興階級への強い関心をトクヴィルに引き起こし、それがトクヴィルを生まれつつある新しい民主社会の注意深い観察者にしていく。
 トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、言うまでもなく、政治思想史の分野における不朽の名著だが、そこには実地に見聞した一八三〇年代はじめのアメリカ社会における自由と平等を追求する民主主義の生き生きとした記述が見られるとともに、そこに潜む大衆社会の危険、世論の暴君性をいち早く見抜く卓越した慧眼が煌めく。その洞察は、今日においても、いや今日においてこそ、ますますその輝きを増している。前任校の修士の演習では何度か同書に言及し、学生たちに是非読むように何度も薦めたものである。
 以下、昨日紹介したリュシアン・ジョーム(Lucien Jaume)のトクヴィル伝に基づいて、トクヴィルがアメリカのプロテスタンティズムの中に見たもの、そして見るに至らなかったものを追ってみる。
 トクヴィルは、十ヶ月間のアメリカ滞在中(一八三一年四月から一八三二年二月)に、ユニタリアン派の大説教師チャニング(Channing)と意見交換する機会があった。その時のやりとりの大筋ををトクヴィルは手帳に書き留めている。
 権威への個人の絶対的服従を求めるカトリシズムを批判し、個々人の価値と自由を認める民主主義を宗教に導入したプロテスタンティズムを代表する大説教師チャニングに対して、「個人は、社会において、自分固有の意見を形成する暇も嗜好も、さらにはその勇気もない。だから、ドグマが必要なのであり、そのドクマを権威と教化によって信頼性のあるものとする制度が必要なのである」とトクヴィルは反論する。
 それに対してチャニングは、以下のように応える。「信仰においては、個人は自由であり得る。なぜなら、神との対話は直接的に可能だからだ。ところが、政治的な問題に関しては、大衆は、経済アナリストのような専門家に比べれば、無知であり、したがって、能力ある権威として認められえない」(L. Jaume, op. cit., p. 195)。
 このようなチャニングの立場からすれば、信仰における個人の自由と政治における大衆の権威への従属とは矛盾しない。
 しかし、当時のアメリカのプロテスタンティズムには、もっと遠くまで集団順応主義批判を徹底化した思想家たちがいた。それは、トクヴィルが当時知る機会がなかったと思われる「超越主義」と呼ばれる哲学的運動の主導者たちであり、その先導者が、三代続いた牧師の家庭に生まれ、自身ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、最初は牧師としても活動した哲学者ラルフ・ワルド・エマーソンである。
 もしトクヴィルがこの「超越主義哲学」の運動を知る機会があったとすれば、アメリカのプロテスタンティズムに見られる徹底した集団主義・順応主義拒否の淵源についての自身の見解の確証を得ることができただろうとジョームはいう。
 ここで言う「集団主義」とは、ある集団を一つの〈体〉とみなし、その〈体〉がそれに帰依する個々人より以上のことを知っているとする、個人を集団の下位に置く考え方のことである。












「今ここになきものへの思慕」 ― エマーソン、トクヴィル、ネルヴァルを読みながら

2014-12-07 19:18:20 | 随想

 十九世紀前半のフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)の優れた知的伝記(biographie intellectuelle)である Lucien Jaume, Tocqueville. Les sources aristocratiques de la liberté, Fayard, 2008 には、トクヴィルの同時代のアメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)と同じく同時代人であるフランスの作家・詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)とに言及している箇所がそれぞれ一箇所ずつある。それら二箇所は、互いに遠く離れており、文脈としては直接の関係はないのだが、それらの箇所を読みながら、それぞれに資質を異にし、かつ十九世紀前半の欧米の精神史にそれぞれに特異な位置を占めるこれらの精神に見られる共通の志向性は何なのであろうかとふと考えた。
 それは、一言で言うと、「今ここにはないものへの思慕」とでもなろうか。ただ、それは二重の意味においてである。つまり、それは、まず、具体的に何か今ここにはないものをそれぞれに懐かしむということでもあるが、それと同時に、否、それ以上に、「今ここにはない」という仕方でしか経験し得ないものへの止みがたい思慕の情ということである。そのような情は、人間にとっての基礎的感情の一つであると思われる。
 彼らの思想のすべてがそこに集約されるとか収斂するとか乱暴なことが言いたいのではないのだが、かといって、彼らの思想精神をただロマン主義的傾向という視野で見るもの大雑把すぎ、何かもっと三者を繋ぐ共通の精神性のようなものを把握したいという想いがある。
 そのような想いは、しかし、なんら研究的な態度に由来するものではないし、関連するいずれの分野においてもただの素人に過ぎないわけだから、そもそも彼らを研究しようというつもりもない。むしろ、これら三つの異なった、しかし十九世紀前半という同時代を生きた精神のいずれにも何故か惹きつけられてしまう自分自身を、彼らのテキストを読むことで、もっとよく理解したいというのが本当の願いである。
 明日から三回に分けて、このテーマで記事を書き継いでいきたいと思っているが、何か予めプランがあってそれにしたがって書くわけではないので、書きながら、思わぬ方向に話が逸れていくかもしれないが、それはそれでまた一つの「自己発見」であるかもしれない。


現代世界を読み直す方法を索めて ― アレゴリー的表現について

2014-11-16 19:19:08 | 随想

 数日前から、必要があって、アレゴリーという表現方法について調べ、考えている。
 手がかりとして、まず、Le Grand Robert の当該項目を引いてみる。「具体的な要素を一貫した仕方で(イゾトピー isotopieに従って)用い、その各要素が隠喩として、異なった性質をもった一般に抽象的な内容に対応する語り」とある。
 次に、Dictionnaire historique de la langue française, Le Robert, 2009を引く。それによると、語源的に、アレゴリーとは、「異なった言葉」という意味であり、フランス語では、そのギリシア語・ラテン語での意味に従い、「隠喩的な言説」という意味で使用され、特に古典的な用法としては、そのすべての具体的要素が、それとは異なっていてしばしば抽象的な内容を組織する語りのことである。
 そして、Dictionnaire du Moyen Âge, PUF, 2002 も引いてみた。具体的作品名がたくさん挙げてありかなり長い項目なので、最初の方の一般的な記述からのみ摘録すれば、以下のようになる。中世は、アレゴリー文学が最も活発に発展した時代であり、そのような発展のための好条件は、キリスト教文化の土台そのものに由来する。つまり、世界を一つの〈書物〉と見なすアウグスティヌスによって解釈されたプラトニズムと、教父たちによってその釈義の諸方法が定義された聖書(l’Ecriture)に基づいた宗教とがこの文学の背景をなしている。
 これらの記述からわかることは、アレゴリーとは、ある具体的なそれとして一貫性をもった物語を語りながら、その物語によって別のことを言おうとする文学形式であり、その別のことは一般に抽象的な内容であり、ヨーロッパ中世においては、その内容は主に宗教的教義・道徳的教説であったということである。おそらく聖書それ自体の解釈の仕方を教父たちが考究していく過程で、聖書の表現の意味の二重性、さらには多層性ということが自覚されていき、そこから聖書に倣って表現方法としても次第に用いられ、発展させられていったのであろう。
 アレゴリーが教義・教説の教化的表現方法として発展したとすれば、そのような教義・教説が疑われるようになり、さらには、より一般的に、一次的な物語表現の背後に不変の超越的な意味の存在を前提するという信念が崩壊した時、アレゴリーが文学形式として廃れていくのも当然の成り行きである。アレゴリーの衰退が中世の終焉と重なるとすれば、近代はアレゴリーの失墜とともに始まったと言うこともできるだろう。
 しかし、乱暴な言い方なのを承知で言えば、近代が、超越的・形而上学的な存在への不信と、リアリズムとシンボリズムの一般化とによって特徴づけられるとすれば、〈書物〉としての世界の読み方としてのアレゴリーは現代において可能かという問いは、中世への呑気な懐古趣味としてではなく、私たちは世界への信を回復することができるのかという問いとして、問われるに値する問いの一つではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人が日記を付け始める時 ― 自照文学成立の根本契機を索めて

2014-11-14 17:39:31 | 随想

 人が自分自身について書き始める契機は何であろうか。過去の自分を回想するためとか、後々のための記録とか、商業的なあるいは私的な理由で人から求められて書き始めるような場合は、ここでは考えないことにしよう。
 昔、日本で大学院生だった頃のことである。ある先生が、「人は不幸になると、日記を付け始めるものだ」と言い出して、それを聞いていた別の先生が、「そうですかねえ。私は別に自分を不幸だと思っていないが、毎日日記つけていますし、後になって読むと面白いですよ」と反論すると、「いや、自分はそのつもりでも、日記をつける人は不幸な人なのだ」と最初の先生は譲らない。半分本気、半分からかうような調子だったし、そこから議論が発展することはなかったのだが、もう二十年以上昔の話なのに、今でも何故か妙にこのやりとりをよく覚えている。
 その時脇でそのやりとりを聞いていた私は、小学校の頃夏休みの宿題としていやいやつけていた日記(いやいや付けていたのであるから、本人にしてみれば大いに不幸であったが)は別として、自分が初めて自ら思い立って日記を付け始めたのはいつだろうかと思い出そうとしていた。
 それは高校二年生の時だった。確かにそのころ我が家は暗かった。父は入退院を繰り返し、その進行する病状からして職場への復帰はだんだんと非現実的な話になりつつあり、自宅療養を強く望んでいた父はしばしば家におり、その姿を見るのは辛くもあったし、やりきれなくもあった。そんなときに日記を付け始めた。やはり一人心のうちにはしまっておきにくい鬱屈した気持ちをどこかに吐露したかったのであろう。
 しかし、自分がそのとき思っていることを書き出してみると、すでに書くべきことがあって書くというよりも、書くことによって書くべきこと(もちろんもっぱら個人的・主観的な意味でだが)が生まれて来るということがわかってきた。しかし、それに気づいたのは、ただ生な感情をそこに吐露しているだけではなく、そのような感情を持つ自分を観察するという態度が書記行為の中に入ってきてからのことである。それが契機となって書くことが習慣化したとも言えるし、書くことが習慣化したということは、そのような自己観察的な内的言語空間が生まれたということだとも言えるだろう。もちろん高校二年生の時にこのように考えたわけではない。今から理屈づけてみればこのように言えるだろうかという話である。
 その日記を付け始めて数カ月後に父は亡くなった。その直前には日記を付けることは一度止めていた。父の死後しばらく経って再開したが、長続きはしなかった。別に不幸ではなくなったと思ったからではなく、受験勉強で日記どころではなくなったというだけの話である。そして大学に入ってから間もなく、その日記を捨てた。読み返す気には到底なれなかったし、その表紙を見るのも嫌になって、他のノート類と一緒に捨てた。
それ以後、断続的に日記をつけ、ここ八年程はフランス語で毎日の記録を日記として残しているが、これはもっぱら過去の記録として坦々とその日の出来事を記しているだけで、感想の類は、ごくわずかの例外を除いてほとんど残さない。
 このように自分自身の貧しい経験を反省してみたところで、自照文学成立の根本契機は、残念ながら、はっきりと見えてきそうにない。自分自身の経験と問題意識はそれとして大切にしなくてはならないだろうが、やはり、基本に立ち返り、まずは『蜻蛉日記』を虚心坦懐に読み直すことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


汝は何處にをるや ― 人間の歴史の始源にある問いかけ

2014-11-12 18:15:12 | 随想

 『創世記』第三章のいわゆるアダムとイヴの失楽園の話は、私にとって汲めども尽きぬ思索の源泉の一つである。以下に記すのは、しかし、そこを読んでのささやかな私的感想であって、聖書解釈としてどうなのかという問題は一切視野の外にある。
 野の生き物のうち最も狡猾な蛇に唆されたイヴに勧められるがままにアダムが智恵の木の実を食べてしまい、その結果として、二人とも目が開け、自分たちが裸であることに気づき、体の一部を無花果の葉で隠し、ヤハウェの足音を聞くと、木の陰に身を隠す。そこでヤハウェはアダムに問いかける、「汝は何處にをるや」と。しかし、これは奇妙な問いかけではないか。なぜなら、全知全能の神がアダムの居場所を知らぬはずはないからだ。とすると、これはアダムを探しだそうとしての問いではないだろう。では、なぜヤハウェはアダムに己の居場所を問うたのだろうか。それは、まさにこの問いにアダム自身に答えさせるためだったのだろう。
 そのアダムの答えは、「我園の中に汝の聲を聞き裸體なるにより懼れて身を匿せり」である。「どこにいるのか」と聞かれただけなのに、「ここにいます」と単純に答えるかわりに、隠れた理由まで説明している。これもまた奇妙な話だ。禁断の実を食べてしまったのだから、罪の意識から神を恐れ、身を隠そうと思った気持ちは、まさに人間としてよくわかる。しかし、身を隠そうと思った理由は、自分が裸だからであるとアダムは言うのである。これも答えとしては何かおかしい。
 いったい何がアダムにこのように答えさせたのだろうか。この疑問に答える手がかりは、直前の箇所に与えられている。神の足を聞く前、知恵の木の実を食べた途端に、目が開け、自分たちが裸であると知った。この出来事は何を意味しているのだろう。禁断の木の実を食べる以前にも、エデンの東の園を自由に歩き回り、その他の木の実は自由に取って食べていたのであるから、目が見えなかったわけではない。だとすれば、知恵の木の実を食べた瞬間に起こったのは、世界の見え方が根本的に変わってしまったということだろう。つまり、自分とは、今こうして見えている自分の体のことであり、自分の伴侶とは、やはり同じく裸体で自分の前に立っている相手のことであり、そのような身体的自己の相互認証がそこで初めて成立したのだ。
 しかし、その時生じたのはそれだけのことではない。なぜなら、アダムは、イヴとともに、神から「身を隠す」ことができると考えているからである。つまり、自分たちが自分たちの体を見るように、神もまた自分たちを見ているはずだ、だから木陰に隠れれば見えないはずだと愚かにも思ったわけだ。ここでアダムが犯している誤りは、有限な人間の視点を神の視点と同一視するという誤りである。
 アダムが知恵の木の実を食することで「獲得」したのは、自己の視点を普遍的な視点と同一視するという態度であり、だからこそ蛇は、その実を食べれば「汝等神の如くなりて、善悪を知るに至る」と唆したのである。しかし、それと同時に、人間が死すべき存在となったのはなぜか。それは、見えている有限存在である自己身体を自己そのものと同一視するようになったからである。
 だから、アダムのヤハウェに対する答えは、自分が罪を犯したことを告白しているだけであって、まだ本当にヤハウェの問いかけ、「汝は何処にをるや」に答えてはいないのである。そして、答えないままに、エデンの楽園から追放されてしまう。
 被造物たる人間のそれ以後の歴史は、この問いに対する答えの探求の歴史だと言ってもいいのではないであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Si vis amari, ama ― 愛されたいなら、愛しなさい

2014-10-06 07:49:33 | 随想

 昨日日曜日は、今月末の国際シンポジウムでの研究発表原稿作製のためにあれこれの参考文献を読み散らしてはメモを取るという作業を日がな一日続け、とうとう一歩も外出しなかった。曇りがちの空を書斎の窓越しに樹々に覆われた視界の向こう側にときどき眺めながら、部屋の中では、書物の森の中を歩いては立ち止まり、考えてはまた歩き出すということを繰り返しているうちに、日が傾き始めた。
 自律的個体の形成、創造的契機としての偶発性、過程としての自由、社会内対立的要素の技術的統合化などの問題群を、ベルクソン、ホワイトヘッド、シモンドン、ジンメルなどを読みながら、それぞれについて鍵概念の周りに議論の骨子を素描していった。
 ジンメルの『社会学 社会化の諸形式についての研究』の中の « Der Streit »(対立・争議・紛争)と題された章は、〈対立〉を一つの社会化の契機として社会形成過程の中に積極的に位置づける、きわめて挑発的かつ鋭利な論考で、今日の国際社会の諸問題を考える上でも最重要な論点の一つを具体例とともに提示している。その章のはじめのほうに、ラテン語の警句 « Si vis pacem para bellum » が引かれている。その文脈では、ジンメルの議論をこの格言に表現されているような立場から区別するために、むしろ否定的に使われているのだが、この格言そのものは、今日の日本の国際社会の中での立場を考える上でも、一つの議論の出発点を与えてくれるだろう。
 この格言は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」と訳せるが、引用される文脈によってさまざまに解釈されうるし、この格言を念頭においた上でのヴァリエーションもいくつかある。ナポレオン・ボナパルトなどは、この格言を念頭に置きつつ、それをあえて逆転させ、 « Si vis bellum para pacem » と言っている。「戦争したければ、平和の備えをせよ」、つまり、そうやって敵を油断させよ、というわけである。さすが天才は違うものである。それはともかく、現在の日本の総理大臣がこの格言を知ったらさぞ喜ばれることであろう。
 しかし、今日はこのようなきな臭い話がしたかったわけではないので、上記の格言が思い出させてくれた、同じく « Si vis » で始まる別の格言を引いて、今日の記事を締めくくりたい。
 « Si vis amari, ama » (もしあなたが愛されることを望むなら、あなたが愛しなさい)。この格言は、セネカの『倫理書簡集』(若き友人ルキリウス宛の書簡集)の第九書簡第六節に出てくる(この格言についてのさらに詳しい説明はこちらを参照されたし)。セネカの言葉として紹介されることが多いが、当該書簡の中ではストア派の別の哲学者ヘカトンの言葉として引かれている。その引用部分を全部訳すと以下のようになる。

私は君に愛の秘薬を、麻薬や薬草や何らの呪文もなしに、示そう。「愛されたいなら、愛しなさい」












夏休み日記㉕ 自己形成的な描線から生命の躍動へ

2014-08-28 12:11:11 | 随想

 昨日の記事で『かぐや姫の物語』の中でもとりわけ印象深いシーンの一つであるかぐや姫の疾走シーンを話題にした。このシーンは、映画の予告編で使われていたこともあり、映画公開以前からいろいろと話題にもなっていたようである。しかし、私はそのような予備知識一切になし映画を観て、このシーンから圧倒的な印象を受けた。それは極点にまで達した怒りと悲しみの疾走であり、そこには私たちがこれまで形成してきたかぐや姫の伝統的イメージを一挙に粉砕してしまうだけの強烈なエネルギーがこもっていた。
 私たちがアニメーションを観て感動するのは、そのストーリーや登場人物の生き方・在り方によってであることが多いかもしれない。しかし、あのシーンは、前後のストーリーを抜きにしても、それ自体で観るものを感動させる何かがあった。それは何なのだろうか。私は次のように考えた。
 私たちがそこに見たのは、生命の息吹から生まれ出た自己形成的な形である。その形は、ものを一定の領域・枠組みの中に閉じ込めてしまう輪郭線によって描かれうるものではなく、そのような反生命的傾向を持った線に収まりきらず、それを突き破ってさらに遠くまで、さらに多方向に進もうとする躍動的な描線によってのみ表現され得る。このような自己形成的な生命の描線は、生物にのみ現われるものではなく、ものを描く〈手〉を通じて、万象に伝播しうる。そのような生命の自己形成的な描線の躍動を目の当たりにするとき、私たちは言い知れぬ感動を覚える。


「寛容」あるいは « tolérance » について ― 丸山眞男の一つの談話をきっかけとして

2014-02-08 02:50:00 | 随想

 昨日の記事で引用した丸山眞男の「好さんとのつきあい」の中に出てくる「寛容」について、私見を述べておきたい。ただ、昨日の一文だけを取り上げて丸山の「寛容」についての考えを批判するのは乱暴な話以外の何物でもなく、議論としても実りあるものになりにくいであろう。そこで、以下に述べるのは、昨日引用した丸山の文章を読んだことをきっかけとした、私が常日頃「寛容」という言葉を聞くたびに、あるいはフランスで « tolérance » という言葉を耳にするたびに、どうしても感じてしまう違和感を自分の言葉で明確化する試みだとご理解いただければ幸いである。
 まず、「寛容」が英語の « Tolerance » あるいは仏語の « tolérance » の翻訳語として明治期に生まれた言葉であり、概念としての起源はヨーロッパ近世にあることを思い出す必要がある。この概念の登場は、西欧におけるカトリック普遍主義の崩壊を前提とする。宗教戦争、そして宗教改革を経て、宗教における多様な信仰を相互に容認せざるを得ないことを西欧人たちが自覚した結果として十六世紀中葉に生まれた価値の一つなのである。つまり、「寛容」は、積極的な理念として打ち出されたのではなく、対立する宗派間・宗教間で折り合いをつけるための妥協策をむしろ意味する。この意味での寛容とは、したがって、決して相手を心から許すことでも相手固有の価値を高く評価することでもない。ただ双方にとって無益な争いを避けるために歴史の前面に登場してきた約束事であるに過ぎない。自分たちの立場・権威・勢力圏等が脅かされないかぎりにおいて、相手のそれらを認めるというだけのことで、一度相手が自分たちのそれらを侵害しようとすれば、寛容はたちどころに不寛容へと転じうるという意味で、寛容は常に流動的で危うい事実上の均衡の上に成り立っている。寛容それ自体にはその適用範囲を規定する根拠は内在的にありえない。したがって、寛容は根本的な行動原則たりえない。ただ、他の原則から帰結として導かれうる方法的態度でありうるとは言えるだろう。
 英語の « Tolerance » も仏語の « tolérance » もラテン語の動詞 tolerare を語源とするが、この動詞の意味は、「苦痛に耐える」「苦痛とともに耐える」「苦しみつつ受け入れる」というのが基本的な意味であり、その意味のままの使用例をフランス語においても十五世紀に確認でき、次世紀もその意味での用法が一般的である。ただし、十七世紀に入って、宗教に関して「開かれた心を持つ」という積極的な意味を持ってくることは確かである。しかし、今日においても、「それ自体としては評価できないし、権利としてはそれを排除することも不可能ではないものを許容する」という意味が「寛容」の底に抜き難く残っていることは認めなくてはならない。
 丸山が言うような「それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容」は、上に見たような「寛容」の語源からすれば、その定義に反する規定の仕方だと言わざるを得ない。それぞれの違いが前提され相互にその違いが最初から受け入れられている社会には、寛容は必要ないのである。寛容を掲げる必要も求める必要もそこにはない。寛容の要請は平等の不在を前提とする。寛容は、受け入れ難いもの、理解し難いもの、敵対するものが、まず存在するところでしか発生しない。そしてそれらを受け入れる者は、自分たちの奉ずる価値が脅かされない限りにおいて、それらを「寛容の心を持って」受け入れているに過ぎない。「寛容」には常に限度がつきものなのだ。それを踏み越えれば、途端に「不寛容」さらには「弾圧」「排除」に転じうる。少し意地悪な言い方をすれば、寛容は、丸山のいう「まあまあ寛容」でしかありえないのである。無限の寛容とは、そのような限度の否定であり、したがって、寛容そのものの自己否定にほかならない。
 寛容は、他者とのある距離を前提とする。直接的な係争関係にはいらないかぎりにおいて、人は「寛容」でありうるのだ。「寛容」は、優位な立場に立つものが他者への無関心・無理解・嫌悪・軽侮を隠蔽する体裁のいい仮面になりうることも忘れるわけにはいかない。
 自分の地位を相手に譲り、自分はその相手よりも低い地位に甘んずる、これを「寛容」と言うであろうか。けっして言わないであろう。少数派、反主流派、被差別側が多数派、主流派、差別者をそれとして容認することを「寛容」とは言わないであろう。虐げられし者たちが虐げるものを許すことを「寛容」とは言わないであろう。自分の生活を脅かすもの、破壊するものになすがままにさせることを「寛容」とは言わないであろう。自分を殺すものになすがままにさせることを「寛容」とは言わないであろう。
 「寛容」という概念は、もしそれが近代社会における強者・支配者が自己保存のために生み出した価値であるに過ぎないのならば、その近代社会の終焉とともに価値を失い、消え去るほかはないであろう。














議論を尽くす時、ロゴスが降臨する

2013-09-18 01:27:00 | 随想

 今日(17日火曜日)は午前中、今年末か来年前半に出版される予定の共同論文集の編集責任者会議、およびその出版の中心となっている美学研究グループの今年度の研究計画についての打ち合わせがパリのCNRSの拠点の1つであり、それに編集責任者の1人として参加した。出席者は私を含めて5人。私以外は皆フランス人女性で、比較文学、美学、音楽学、演劇論等それぞれの分野で活躍している研究者たち、皆何らかの仕方で中国・台湾・韓国・日本に関係のある仕事をしている。
 会議は3時間ほどだったが、そのうち1時間は今年のグループ研究のタイトルをどうするかの議論。これが面白かった。結局 « Notions esthétiques : la percepstion sensible organisée »に落ち着いたのだが、このタイトル自体は話し合いのはじめのほうで出席者の1人によって提案されていた。ところが、それぞれの出席者がこのタイトルが与えそうな誤解やそこから外れてしまう研究テーマ等について率直に意見を言い合い、他のタイトル案を出しては、そのそれぞれについて皆で吟味していった。フランス語の微妙な語感を一方では考慮し、他方では研究予算を研究母体組織に申請するにあたって受けの良い表現・悪い表現等を勘案し、なかなか議論は収まらず、一時は暗礁に乗り上げたかの感を皆が持ち、数秒に過ぎなかったが沈黙が会議室を支配したこともあった。しかし、誰かが再度議論の口火を切り、またしても侃々諤々、時には相手のある言葉への強いこだわりを互いにからかったりして場を和ませながら、最終的には皆が納得する形で上に示したタイトルに決まった。もちろん全体のまとめ役である音楽学者が予算申請にあたっては研究計画書を添付するわけだが、その中にどんな内容を盛り込むかを決めるためにも有益な議論であったと言える。
 どこでもいつでもこのように生産的な仕方で議論が行われるわけではもちろんない。そうでないことのほうが多いと言ったほうがいいかもしれない。しかし、私がこれまでフランス人との議論に参加してきて、しばしばとは言えないが、時々経験したことは、今日のような研究についての話し合いだけでなく、大学行政についての話し合いの場でもそうなのだが、皆が自分の言いたいことを言い合っているだけのような過程を経て、皆が意見を言い尽くすと、自ずと議論がある方向に向かってまとまっていくことがあるということである。それには時間がかかる。予めどれくらいとは決められない。しかし、今日の彼女たちもそうだったが、その議論の時間を楽しんでもいるのだ。それは結論を急ぐことなく議論の過程そのものを享受しているとさえ言っていいかもしれない。彼女たちにはこんなことはそれこそ自明のことで、いつもそうしていることだから、かえって気づいていないかもしれないが、1歩引いたところから見ている私には、それはあたかも自分たちの意志ではどうにもならないロゴスが自ずと降臨して自分たちの議論を導いてくれるのを待っているかのようでもある。でも、ただ黙って待っていてもロゴスは臨在してくれない。私たちが忌憚のない議論によって開く言語空間にこそ、時至れば、ロゴスは具体的な形をとって顕現する。それは、いささか大げさに聞こえるかもしれないが、1つの美的体験でもある。
 会議の後は階下のレストランで残った参加者と昼食を共にする。その時に、2005年からだからもう8年になるが、これまで何度かシンポジウムで一緒にパネルを組み、常日頃私の共同研究への参加を促してくれ、私の研究をよく他の研究者の前で評価して、励ましてくれている上記の音楽学者が、「欧米人がアジア文化のことを説明するのではなくて、アジア人自身が自分の言葉で自分たちの文化についてここで話すことがとても大事なのよ。だから、〇〇、あなたがこの研究グループに参加することはとても大切なのよ」と言ってくれたことをありがたく思う。