内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

滞仏丸17年

2013-09-10 02:26:00 | 随想

 毎年この日は私の人生にとってのひとつの大切な「はじまり」を思い出させる。1996年9月10日に初めてフランスの地に、というよりも初めて異国の地に降り立った。成田発のエール・フランス便が出発予定時刻よりも5時間遅れ、シャルル・ド・ゴール空港からその日のうちにストラスブールへ国内便で移動することになっていた当初の予定が最初から大幅に狂い、到着日は空港内のシェラトン・ホテルに投宿(宿泊料はもちろん航空会社の負担)。翌朝一番の便でストラスブールに向けて発った。日本で予約しておいたホテルが市内ではなく空港の近くで、タクシーを使わないと市内への移動もままならないような不便で殺風景な郊外にあることがホテルに着いてはじめてわかる(今じゃ考えられませんよね。ネットで簡単に場所の確認ができるし、予約も実に簡単)。何はともあれ一旦部屋に落ち着いてから、さて昼食でも取ろうかとホテルのレストランに降りていく。ところが、席に落ち着く間もなく、私に「電話が掛かってきている」というアナウンスが流れる。まさか日本からではないとすると、一体誰から? 電話番号を伝えてあるのは、受け入れ先のストラスブール大学の指導教授ジャン・リュック・ナンシー先生だけだったが、まさか一面識もない東洋の私費留学生ごときに、高名な哲学者であり当時超多忙な学部長でもあった先生から直々に到着早々連絡があるとも思えないがと半信半疑で受話器を取ると、まさにそのナンシー先生であった。まったく予想もしていなかったことで気は動転するし、その当時はろくにフランス語が話せなかったし、しかも電話でのフランス語会話など経験がなかったこともあり、もうしどろもどろ、先生の方は非常にゆっくり丁寧に話してくださっているのに、すぐには聞き取れない。呆れたように「英語のほうがいいか」と聞かれたので、「いや、フランス語のほうがいいです」と小さな声で答える。これはやせ我慢でも格好つけでもなく、ほんとうにフランス語のほうがまだましだったからにすぎない。ようやくのことで、昨晩到着すると聞いていたから助手の一人を空港まで迎えにやらせたが、誰もそれらしい家族連れ(配偶者と2歳半の娘が一緒だった)の東洋人は見当たらなかったということなので、いったいどうしたのかと心配して電話してくれたことがわかり、私の方でもなんとか飛行機の遅れのことを説明して、やっと双方ともに事態が飲み込めたという次第であった。そして翌朝自宅に来るようにとの先生のお招きを感謝して、やっとのことで受話器を置いたときには全身汗でびっしょりであった。因みにその日は曇で肌寒い天気だったことを覚えている。
 それから丸17年が経った。その間にいったいどれほどのことがあったことだろう。いろいろあった。いや、ありすぎた、と言うべきか。だが、あの時のすべてに覚束なかった自分と、今こうしてフランス国家公務員として、と言えばあるいは聞こえがいいかもしれないが、実のところはヨーロッパ諸国の中でも薄給で知られたフランスの大学の准教授として日本の思想と歴史を教えながらパリで独り暮らしをしている自分との間に、どれほどの違いがあるのか。この17年間に満足もしていなければ、自負もない。いろいろままならぬことばかりだが、それらが自分ではどうにもできないことの場合、腹も立たない。いや、少しは立つ。でもすぐ収まる、あるいは忘れてしまう。そしてまた思い出す。ただその繰り返し。そうかと言って後悔もない。後悔するのは、自力で別様にもできただろうにという自負の裏返しだから。自力など頼むに足りない。とはいえ、自分の不甲斐なさを棚上げして、開き直るというのでもない。私に対するあらゆる正当な批判は、それらをありがたく甘受します。運命論者ではまったくないが、こうなるべくしてこうなってしまったのではないだろうか、と思う。投げやりなのでも、自暴自棄なのでも、悲観主義なのでもない。なるべくしてなってしまった今の自分をそれとして受け入れ、ただもがき苦しむばかりである。幸福でもないが、不幸でもない。かくにしてなお生きざるをえぬのは、人生の過酷さであろうが、かくにしてなお生きることを許されているのは、命そのものの無限の慈悲深さでもあろうか。「信ずれば、救われる」と信ずるのは、すでに己の計らいであろう。まさに罪悪深重の凡夫、それ以外の何者でもない。


思想の地形学 ― ライン川流域神秘主義

2013-08-12 07:00:00 | 随想

 パリで教えるようになる以前、1996年から2000年までの4年間、パリから東に約500キロ、フランス東端ライン川の辺りの街ストラスブールに住んでいた。大学院博士課程の留学生として、最初に暮らした外国の地がこのストラスブールで、とりわけ深い愛着がこの街にはある。今でも年に何回か仕事の関係で訪れる。その度に、街並みの美しさはフランスの地方都市の中でも指折りだと思うが、これは贔屓目だろうか。ノエルのイルミネーションはことのほか美しく、毎年多数の観光客で賑わう。
 留学最初の一年弱は、街の中心部にあるショッピングセンターのすぐ近くの便利なだけが取り柄の粗末なアパートに住んでいたが、残りの3年余りは、市の北東部、ライン川から直線距離にして数百メートルの閑静な住宅街で暮らした。そこは、当時、一方では、新しいマンションが数棟建設中だったが、他方では、広大な敷地を持った古くからある個人宅が並び、その牧場には馬が放し飼いになっているのがバス通りから見えるなど、都市郊外の住宅地と田舎の風景とが混在するような地区だった。一帯に高い建物はなくて、マンションといってもせいぜい5階建て、私たちが住んでいたアパルトマンも3階建ての建物の最上階にあった。私が勉強部屋にしていた部屋の窓からは、ライン川の向うのドイツ側に広がるシュヴァルツヴァルト(黒い森)が見渡せた。街の北のはずれには、樹齢数十年から百年を超える、樫、楢、銀杏、糸杉、ポプラなど種々の樹々が様々な枝ぶりを見せながら点在する美しい庭に囲まれたお城があり、一時そのお城の一部を日本語補習校が図書室として借りていて、幼稚園入園前後だった娘もしばらくそこに通っていた。その城のさらに北側には大きな森が広がり、その森の中の樹々に覆われた歩行者・自転車専用道路をよく自転車で縦横に走り回った。
 その森を抜けて、ドイツとの国境をなすライン川の辺りに出ることもできた。ライン川は、スイス・アルプスのトーマ湖を水源とし、ドイツ・フランスの国境を北に向い、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフなどを通過し、オランダ国内へと入ったあと2分岐し、いずれもロッテルダム付近で北海に注ぐ、ヨーロッパを代表する大河である。古城と伝説で有名なローレライ付近はこの河の航行の難所でもある。
 地図で見るとよくわかるが、ライン川を中心軸にして、ストラスブールの街のさらに西側には南北にヴォージュ山脈が走り、ドイツ側には、先ほど言及したシュヴァルツヴァルトがやはり南北に走っている。その2つの山脈に囲まれている平地をライン川が流れており、その平地の中心地がストラスブールである。南北に走る2つの山脈に挟まれていることによって、東西方向には他の地域からはっきりと区別された閉じた一帯であると同時に、ライン川によって南北方向には他の諸都市と繋がり、遥か彼方の北海にまで開かれている。それに、現在の国境からすればフランスの東端だが、西ヨーロッパ全体においてはほぼその中央に位置する。この閉鎖性、開放性、中心性という三重の特徴を持った地理的環境は、19世紀から20世紀にかけて揺れ動いた独仏国境などという近現代ヨーロッパ史にのみ関わる史実より遥か遠い昔から、中世都市ストラスブールにとっての所与であった。
 この地理的・地形的条件と、ストラスブールが中世後期から末期にかけてカトリック教会のそれまでの信仰の枠組みを揺るがすような異端的な神秘主義的運動の中心地であったこととの間には何らかの関係があると、ストラスブールに暮らしはじめてすぐに直感し、以来このインスピレーションに基づいた思想史の方法論を構想しようとしている。マイスター・エックハルトをその頂点とする中世キリスト教神秘主義が、フランスでは、「ドイツ神秘主義」とは呼ばれず、「ライン(川流域)神秘主義(La mystique rhénane)」あるいは「ライン・フランドル神秘主義(La mystique rhéno-flamande)」としばしば呼ばれるのも、だから、もっともなことだと私は考える。もちろん、1つの宗教思想運動の発生の政治的・経済的・社会的諸条件を無視することはできないが、その地理的・地形的諸条件を特に考察対象とする、いわば「思想の地形学」とでも呼ぶべき研究方法も、思想史研究の1つの補助的なアプローチとしてはありうるのではないだろうか。


許しがたきを許せるか ― 解放としての忘却

2013-07-15 16:00:00 | 随想

 「あいつだけは許せない」- 誰かに対して怒りに捕らわれたときなどに、私たちは無反省についこのように口走ってしまうことがある。あるいは、口走らなくても、そういう思いが心をよぎることがある。それが一過性の激しい感情の発露というだけならば、その感情が消えるとともに、その「許せない」という気持ちも失せる。私たちが「許せない」と言うとき、大抵の場合は、この類の、他に取って代わられうる感情の一種のことに過ぎない。しかし、この世の中に生きていると、「こんなことが許されていいのか」、それが法に触れることかどうかは別として、「こんなことがまかり通っていいのか」と、もっと深い怒りあるいは義憤から、「許せない」と叫びたくなるときだって、残念ながら、少なくない。ましてや、「許しがたい」犯罪については、いろいろな意味において、「許せない」と叫ぶだけではすまされない。今日のようにネットを通じて、世界中のニュースが一瞬にして地球を駆け巡る時代に生きていると、こっちはそれを知ろうと思ってもいないのに、そのような犯罪についての情報が嫌というほど耳に届き、目に飛び込んで来る。その頻度は、うっかりすると、世の中はほとんど「許せない」ことばかりで成り立っているのかと思いたくなるほどだ。
 もし、世の中「許せない」ことだらけだとすれば、それが日常茶飯事だとすれば、私たちは自分でそれと気づかないままに、それらが生じることを「許してしまっている」ことになる。しかし、私はここで世人のいわゆる無責任を糾弾したいのではない。そうかといって、そのことに無関心でいいと言いたいのでもない。「世の中そういうものだ、諦めろ」と斜に構えたいのでもない。ただ、そのように「許してしまう」ことなしに、私たちは果たして一日でも生きられるだろうか、と問いたいだけだ。もしそのように「許してしまう」ことが罪ならば、誰が自分は「罪人」ではないと最後の審判の日に申し開きができるであろうか。
 個々の犯罪について、ここで問うことはしない。それぞれの犯罪について語るには、あまりにもその「真実」を知らないのだから。福島原発事故に象徴的に代表されるような、現代社会の根深い構造的腐敗の問題もここでは扱わない。根治不可能ないわゆる政財界の諸悪もここでは除外する。それらはそれとして、それぞれに考えなくてはならない問題だ。しかし、これらは私たちが社会で生きるかぎり不可避的に直面せざるをえない諸問題であるとすれば、それらについては、許すか許さなかが問題なのではなくて、それらにどう対処し、対策を立てるかというといことが、現実に即して問題にされなくてはならないであろう。
 私が今日ここで問題にしたいのは、私たちは我が身にとって「許しがたいことを許す」ことがほんとうにできるのか、もしできるとすれば、それはどのようにしてなのか、ということである。これは私にとって他人事ではない。一般的に論じて一般的な結論が出せれば、それで解決、というような、頭だけで考えうる思考のゲームでもない。それは身を切られるような痛みを伴った現在の問いとして私に迫る。
 私は、これまでの人生で、ただの一度も、私にとって許しがたいことを許せたことがない。許せないままなのだ。いつまでも相手に対する憎しみが消えないというのではない。ただ、自分がなぜあのような酷い仕打ち、理不尽な扱いを受けなくてはならなかったのかわからず、その理由がわからないかぎりは、許すに許せない、と言えばいいだろうか。相手に向かって「どうして」と問いかけ、それに対する納得のいく答えが相手から得られないかぎりは、許すわけにはいかないという不自由な気持ちに囚われたままだと言い換えてもいい。しかし、その答えが得られれば、そのときは、ほんとうに許せるのだろうか。それさえわからない。
 このような「囚われの身」であることは、それだけで生き難い。自分でもなんとかしたいと思う。我が身を苛む、この心の拘束衣から一日も早く解放されたいと切に願う。でも、まだ、どうやったらそれが外せるのかわからない。ただ、これだけは言えそうだと思えることは、逆説的に聞こえるかもしれないが、許そうと努めるかぎり、許すことはできないだろう、ということだ。さらに踏み込んで言えば、許そうとして許すことは、ほんとうに許したことにならない、ということだ。
 なぜそう言えるのか。それは以下の理由による。とても許されないようなことを人にはしておきながら、自分では人を許せない、この頑な私を、それにもかかわらず、許してくれた人たちがいる。それは、その人たちが私を許そうと特別に努めてくれたということではない。私の過去の過ちが私自身の償いによって帳消しにされたということでもない。私が犯した過ちは、事実として、消えることはない。では、何が起こったのか。私が驚きとともに気づかされたことは、その人たちにおいて、私の許しがたい過ちの〈許しがたさ〉が忘却されていることなのだ。その忘却は、しかし、その人たちの意志によって獲得されたものではない。それは、個人の意志を超えた何かがその人たちにおいて働いているからこそ、到来した事柄なのである。「許せない」私に、今言えるのは、ここまでである。


思い出だけが美しい ― 浄化としての想起

2013-07-14 21:00:00 | 随想

 「思い出だけが美しい」という人がいるかと思えば、「思い出すだけでも、いまだに腸が煮えくり返る」という人もいる。両者真っ向から対立しているように見える。後者の場合、その過去の忌まわしい出来事が今も感情を揺さぶり続け、そこから距離を取ることができないままだと言っているのに等しい。さらに深くその人を傷つけた出来事の場合は、それを思い出すこと自体があまりにも辛いゆえ、それを拒否し、無意識の内に抑圧しようとする心理的機制が働きもする。だが、これら後者の場合は、それだけで深刻な問題であるから、いずれまた改めてゆっくり考察することにして、今日は、「思い出の美しさ」、あるいは、「思い出すことにおける美の経験」について考えてみよう。
 「思い出だけが美しい」というのは一種誇張された表現だとも言える。〈現在〉における美の体験の例を私たちは容易に挙げることができるだろうから。とすれば、この表現は、美しいもの・ことは思い出の中にしかない、ということが言いたいのではなく、むしろ、思い出すときにのみ現成する美しさ、そのときにしか経験できない美しさがある、一言で言えば、想起における美の固有性のことを言わんとしているのではないだろうか。
 この想起における美の固有性を考えようとするとき、過去の美の体験、例えば、かつて私たちが実際に接した、美しい絵画、風景、音楽などの例を挙げることは、かえって事柄そのものに接近しにくくさせるかもしれない。なぜなら、それらの場合、過去において体験された美と想起において現前する美との区別という問題が入り込んでくるからである。そこでは、後者を前者と同一視する、後者を前者によって根拠づける、などの過ちに陥りがちだ。それらを注意深く避けなくてはならない。
 そこで、よりわかりやすく、誰にでもありうる例として、失恋の経験を考えてみよう。別れは辛いものだ。その直後は、食事も喉を通らない、誰とも会いたくない、夜も眠れない、もうこれ以上生きていても意味はないとまで思い詰めることだってあるだろう。自分は不幸なままで、別れた相手だけが幸せになることなど許せない、と激しい嫉妬に身を苛まれることもあるだろう。辛い思いをし続けることは耐えがたいから、早く忘れてしまいたいと、慌てて別の相手を探す、あるいは、何か別に熱中できることを見つけて、とにかく別れた相手を思い出さないようにあれこれ試みる人もいるだろう。これらの苦しみがいつまで続くのか、わからない。数週間、数ヶ月、あるいは数年。
 〈今〉、それらすべての苦悩は、もう心を疼かせなくなったとしよう。自力でそれらを乗り越えたかどうかは問わない。それはどちらでもよい。それまでの苦しみを忘れている自分に、あるとき、ふと気づく。もう以前のように無理をしなくともよい。そのとき、好きだった、あるいは今でも好きなその人が、まったく新たな相貌のもとに私の前に立ち現れる。それは、ただただ美しい。いったい何が私に起こっているのか、何が私に到来しているのか。それは考えが変わったなどという日常的なレベルの出来事ではない。自らの作為による過去の美化に成功したということでもない。心的外傷の自然治癒ということにも尽きない。自分が人間的に成長した、「大人になった」ということとも違う。
 私はこう考える。そのとき、思い出すという仕方でのみ経験しうる他者との関係が〈私〉においてはじめて成立したのだ。想起が〈私〉にもたらすのは、その時その時の直接的な関係において体験された種々の感情・情念・感覚から浄化された〈他者〉の姿なのだ。それは、過ぎゆく時間を超えて変わらぬもの、〈真なるもの〉の到来である。それは美しい、ただひたすらに美しい。私たち誰にも到来しうる、この〈想起における美〉、これを「恵み」と呼ばずになんと呼べばいいのだろう。


〈今〉、生きている

2013-07-13 21:00:00 | 随想

 いつの頃からだろうか、「いい思い出を作る」、あるいはそれに類した表現をしばしば耳にするようになり、以来、何かそれに引っかかるものを感じて、気になっていた。何が気になっていたのだろう。おそらく、それは次のような違和感だと思われる。誰かがそのような表現を口にするのを聞く、あるいはそう書かれてあるのを見るたびに、結果としてある出来事・体験がよき思い出として残るというのではなくて、最初からいわゆる「いい思い出」を作ることそのことが目的になっているように思われ、それでは本末転倒というか、〈今〉を十全に楽しむことが逆にできないのではないかという気持ちを私に抱かせるのである。
 「いい思い出を作る」ためには、「いやなこと」は避けたい。そうしないと、思い出が損なわれてしまうから。しかし、そのようないわば自己検閲が働いてしまうと、その都度の〈今〉に包蔵される意味の豊かさを十分に生きることができなくなってしまうのではないだろうか。「楽しい思い出」が一杯の過去を持つことができることは幸せなことかもしれない。しかし、そのためにそれと意識しないままにその都度の〈今〉の中に含まれていた、その時には辛く、あるいは苦しく、あるいは苦く感じられる要素が排除されてきたのかもしれない。とすれば、それらの要素を欠いたまま私たちに残された「楽しい思い出」は、私たちがその都度の現在を十分には生きなかったことの証にほかならないのではないか。それは、例えば、美しい風景を目の前にして、後日の楽しみのためにと、それを写真に撮り記録に残すことに忙しく、〈今〉〈ここ〉でしか感じられないことを、五感を全開して体全体で感じ取ろうとしないことに似ていないだろうか。もちろん、たった一枚の写真が、記憶の底に沈んでいた遠い昔の思い出を一気に蘇らせ、それによって胸を締めつけられるような懐かしさとともに、その遠い昔を愛おしむ気持ちが生まれることも事実ある。それを否定しようとは思わない。だから、今をよく生きるためには写真を撮るな、などと乱暴なことがここで言いたいのではない。
 後になって思い出したくもないようなことはできれば最初から避けて通りたい、そんな思い出はいらない、そう思うのは自然なことだ。嫌な思い出に付き纏われて後々まで苦しい思いなど誰がしたいであろう。そんな苦しみがあっては、それこそ〈今〉を十全に生きられないではないか。だから、私たちは悔いのないように生きようとする。しかし、それは「楽しい思い出」だけを残そうすることとは違うだろう。誰も後悔するために生きているのではない。にもかかわらず、何一つ後悔することのない人生を送ることができた人は極めて稀だろう。それは、私たちが十分に賢くないゆえにどうしても誤った選択をしてしまうからだろうか。私たちにできることは、「いい思い出」をより多く残すために、せいぜいよりよい選択を心掛けることだけなのだろうか。
 それよりも根本的なことだと私に思われるのは、それが正しかったにせよ誤っていたにせよ、私たちは生きているかぎり選択せざるをえないということであり、ある選択がなされたということは、それ以外のすべての選択がなされなかったということであり、この意味で、私たちそれぞれの人生は、私たちがそう望むか望まないかに一切かかわりなく、されなかった、あるいは、しえなかった選択の総体の否定にほかならない。その人が幸福であろうが不幸であろうが、誰一人の例外もなく、この人間の意志を超えた否定性を、等しく、〈今〉、生きている。


探すことと見つけること

2013-07-11 21:00:00 | 随想

 普通、私たちが探しものをする時は自分が何を探しているのかわかっている。それは、仕事上の大切な書類、電車の中で落としてしまった携帯、久しぶりに会う友達との約束の場所、数年前に失踪してしまった家族の一人など、いろいろありうるが、探し始める時には、自分が何あるいは誰を探しているのかわかっている。だからこそ、その探し物あるいは探し人を見つけることができる。もし何を探しているのかわかっていなければ、何あるいは誰を見ても、それは自分の〈探している物・人〉として立ち現れることはないから、決して〈見つける〉ことができない。 
 とはいえ、「職を探す」というときのように、必ずしも、自分が何を探しているのかはっきりしないままに探し始めることも現実にはある。例えば、職種については、希望がはっきりしていたとしても、いくつかの求人の条件を見比べて、いったいどれが自分の探している職なのか、決めかねるということも大いにありうるだろう。そのように探し続けているうちに、自分が一体職業として何を求めているのか、だんだんとはっきりしてくるということもあるに違いない。あるいは、「これだ」と思って就職を決め、働き始めてみて、「やはりこれは自分の探していた仕事ではない」と気づくという苦い経験をした人たちも少なくないだろう。
 さらには、誤って探すということも、私たちの人生にはある。探し物はすでに目の前に置かれてあるのに、あるいは探している人は目の前に立っているのに、それと気づかず、別の場所にその物・人を探しに行ってしまう。しかし、この場合でも、そのことに気づけば、それはそれで目的が達成されたのだから、私たちはそこで探すことをやめる。自分の探し物・人は、探し始める前から、すでに見出されていたのだ、と気づく。
 ただ、上記のいずれの場合についても、共通してこれだけは言えそうなことは、決して見つからないとわかっていて探すということは誰もしないだろう、ということである。どんなに困難な状況であれ、わずかでも見つかる可能性がある、あるいはそう信じているからこそ、探し続けることができる。見つかることが決してないとわかっているものを探すということは、だから、私たちにとってまったく想像しがたいことのように思われる。
 しかし、けっして見つかることのないものを、そうと知りつつ探し続けることによってのみ、私たちに開かれてくる経験の次元がある。この〈探す〉ことの純粋経験とも呼ぶべき次元が開かれてくるためには、私たちには何が見出しうるのかということ、つまり私たちの認識の限界が繰り返し問い直され、それに対してその都度可能な限り厳密な答えを出し続けなくてはならず、その上で、見出されたもの、あるいは見出しうるものすべてを、一つ一つ排除していかなくてはならない。なぜなら、それらすべては見出された瞬間に私たちに探すことをやめさせるから。
 このようにして私たちに開かれてくる〈探す〉ことの純粋経験において、〈けっして見出されえないもの〉がまさにそのままそれとして現成する。それを「神」と呼ぶかどうかは、また別の問題である。それよりも根本的なことは、このような〈探す〉ことの純粋経験は、いわゆる信仰のあるなしかかわらず、すべての人にありうることだということである。


〈虚空〉に包まれ、今ここに佇み、沈黙の声を聴く

2013-07-04 06:00:00 | 随想

 このブログを6月2日に立ち上げて、その日から今日まで毎日更新してきた。書き残しておきたいことは、書けば書くほど具体的なテーマとして、次から次へと頭に浮かんできて、今日はどれにしようかと迷うほどになり、毎日ブログの記事を書くことが習慣化しつつある。どなたがどのようにこれらの拙い記事を読んでくださっているのかはわからないが、この習慣化のおかげで、これまで普段からあれこれ考えてきたことを、日毎、ある一つの問題として整理しつつ、それにできるだけ明確な形を与えることができるようになっただけでも、私にはこのブログを始めた甲斐があった。
 ブログを始めて間もない頃、6月28日予定されていた研究発表のことを記事にした。発表のテーマは、「虚空と充溢せる大地 ― 〈無〉、黙し、開かれ、受容する媒介者 ―」であった。そのときは、フランス語の発表原稿を準備しつつ、それと並行して、このブログでもその内容を記事にしていくつもりで、そのように予告もしたのだが、フランス語原稿の方が思うように進まず、ブログでそれを取り上げることも、中途半端な形でしかできなかった。原稿も結局発表前日までに仕上げることができず、当日は、かなりの部分、メモだけを頼りに発表した。そのうえ、私の順番が回って来るまでに、すでにプログラムの予定時間を大幅に超過していたので、発表の途中で司会者から急かされ、不本意ながら原稿の後半は全部切り捨て、簡単な結論を付けることさえできなかった。その意味では、不満の残る発表だったが、それにもかかわらず、聴衆からの反応は意外なほどよかった。発表中も、言葉が聴き手に届いているという手応えがあったが、発表後の質問も活発で、それに応えることで、発表できなかった部分についても、いくらか補うことができた。
 受けた質問の中で特に印象に残ったのは、別の発表者で、ソルボンヌで音楽史と音楽論を講じ、特にヨーロッパ18・19世紀における音楽と絵画と文学の関係を研究し、リストの伝記をスペイン語でも出版している女性研究者から、「私たちヨーロッパ人が "Le Ciel vide" (虚空) と聞いてまず思い浮かべるのは、神のいない空虚な空間ですけれど、あなたが言う『虚空』は、何かそれとはまったく違った、根源的で豊かなものなのですね」という質問だった。その場ではそれに対して手短な回答にとどめざるを得なかったが、発表では読む時間がなかった原稿の結論部には、この質問に対する答えになる一節が含まれていた。その発表できなかった部分も含めて、完成原稿は来年には論文集としてフランスで出版される(今日の編集会議で、私がその論文集の後書きを書くようにとディレクターからほとんど拒否できない仕方で頼まれてしまい、また一つ夏休み中の仕事が増えてしまったが、それだけ信頼してくれているということなのだから、ありがたい話としてお引き受けした)が、日本語で出版される予定はないので、その結論の一部をここに要約して記しておく。
 世界内存在である私たちは、それにもかかわらず、空を〈虚空〉として見ることができ、その〈虚空〉に、私たちは、無限に、そして永遠に、受け入れられている。私たちは、〈虚空〉に、生誕以前にすでに招かれており、死後永遠にそこにとどまる。私たちは、自分たちが〈どこ〉におり、〈何〉であるか、という問いの答えが、沈黙のうちに〈虚空〉に鳴り響いているのに耳を傾けるよう、常に〈虚空〉から招かれている。その答えを自分たちの内に探しても無駄である。私たちの内には、可能態としての私たちしか見出されえないから。沈黙のうちに〈虚空〉に鳴り響くその答えをよりよく聴き取るためには、まず、私たちのうちにざわめく概念の雑音を沈めなくてはならないだろう。その雑音は、私たちを〈虚空〉から遠ざけるだけだから。
 現象に満ち満ちたこの大地にあって、私たち人間存在は、自分を世界の諸々の構成要素に繋げる水平に拡がる諸線と、無限の開けとしていつも私たちを待ち続け、いつでも受け入れてくれる〈虚空〉へと私たちの眼差しを導く垂直線との、いわば、交点そのもの、世界を無限に超え包む〈虚空〉へと世界が開かれる転回点そのものなのである。


雨中、オルタンシアの華影、そして紫陽花幻想

2013-06-21 21:00:00 | 随想

 今朝も目覚めると雨。日本の梅雨を思わせる、しとしと降る雨。その雨の中、今朝も昨日と同じプールへ。天気が悪かろうが10人程度の常連達は7時前には門扉前に並ぶ。私もその1人。夏が近づくと、利用者は自ずと増える。年間を通じての常連である私などには、それは少しも嬉しくない。しかし、日本と違うのは、少なくともパリでは、真夏、つまりヴァカンス中は、プールも空いているのである。プールだけでなく、普段の生活圏からヴァカンスでパリジャンたちがいなくなり、街がとても静かになる。だから私は8月のパリが好きだ。

 梅雨には紫陽花がよく似合う。フランスに植生する同種はオルタンシア(hortensia)、辞書には「セイヨウアジサイ」とある。花柄は日本の紫陽花より一回りも二回りも大きく、色も多彩。白は清楚、青は瑞々しく、薄紫は気品がある。濃い紫や紅色は特に目を引くが、私にはときに毒々しくさえ見える。ブルターニュ地方では、戸建の家を囲むように植え込まれているのをいたるところで見かける。満開時は豪華なドレスのように艶やか。ただ、花柄が大きいだけに、枯れ始めると途端に醜くなる。手入れの行き届いた庭では、枯れた花はすぐに取り除かれるから気づかないが、そのまま枯れるに任せてあるのを見ると、痛ましく、目を背けたくなる。窓外で強まる雨脚の音を聞きながら、今はない日本の旧宅の庭、他の草木の間で、ひっそりと雨に濡れていた薄青紫の紫陽花が幻のように脳裏に浮かぶ。

 こちらの学年度では今が年度末。毎年この時期になると、奨学金の申請、来年度からの他大学への進級、内部での修士2年への進級を希望する学生などから、推薦状の依頼がよく来る。今日も一通書いた。これら推薦状は、学科責任者として当然引き受けるべき責務なので、原則として断らない。今まで何通書いたか数えたことはないが、断ったのは一度だけ。その学生の頼み方があまりにも無礼だったので、「君のその頼み方そのものが、君が推薦には値しない学生であることの証だ」ときっぱりと断った。引き受けた中にも、成績からして推薦に値するかどうかきわどい場合もあり、そういう場合は、やはりどちらかというと形式的でありきたりな文面になってしまいがちだが、そうでなければ、一人一人、それぞれの学生の個性を考えながら、文面を工夫する。結果、大体みんな喜んでくれる。
 以前、英語の推薦状を依頼してきた学生がいて、この学生は私がこれまで教えたことがある学生の中で最優秀の一人で、しかも人柄も折り紙つきだったので、喜んで引き受けた。しかし、私の英語力ではありきたりの文面にしかならないので、仏語で書いた推薦状をイギリス人の同僚に英訳してもらったことがある。気持よく引き受けてくれたその同僚から、「こんな長くて凝った推薦状なんて見たことない。訳すのに苦労したわよ」と訳を渡されるときに言われてしまった。学生本人はその時日本に留学中で、日本から直接ニュージーランドの大学院に進学したくて私にメールで推薦状を頼んできた。だからこちらからも仏語版と正式書類として提出される英訳をスキャンして、PDF版で送った。文面にいたく感激したその学生は、推薦状の仏語版オリジナルを記念にとっておきたいから、在学中の弟に託してくれと頼んできたので、署名して渡した。
 推薦状について、私はこう考えている。それは、ただ褒めるだけのものではない。書き手の権威や社会的地位だけがものをいうのでもない。すでに他の証書によって認められている能力を追認するだけのものでもない。その学生の個性を捉え、本人がそれとしてまだよく自覚しているとはかぎらない潜在的能力をもはっきりと書き記すことによって、推薦者が、その学生にそうなってほしい、そして、そう成りうるのだから成るだろう、との願いと期待を込めて書くものだ。推薦した学生からの合格の吉報はもちろん嬉しい。でも、これまで貰って一番嬉しかった礼状は、日本語で、こう結ばれていた。
 「いただいた推薦状の内容に相応しい人間に成れるよう、これからなお一層精進します。」