内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

作用・環境・個体化 ― ジルベール・シモンドンを読む(106)

2016-07-03 06:00:20 | 哲学

 十日前の記事で読み始めたILFI第二部第二章第二節 « Information et ontogénèse » 第三項 « Limites de l’individuation du vivant. Caractère central de l’être. Nature du collectif » の読解を再開する。
 同項のタイトルに明示されている三つのテーマ ―「生体の個体化の限界」「存在するものの中心的性格」「集団的なものの本性」― のうちの最初のテーマについての所説をもう少し追っておきたい。
 « Vivre consiste à être agent, milieu et élément d’individuation » (214) という簡潔な一文は、これまでずっと読んできたシモンドンの所説を想起するとき、シモンドンの生命観の根本に触れるとても含蓄深い表現だと思う。
 生きるということは、働きかけるものである作因という広い意味での個体があり、その個体がそこにおいて成り立ち、それに対して働きかけ、かつそこから働きかけられる環境があり、かくしてその「ことなり」(事成り・異なり)が個体化過程の一齣であることそのことなのである。
 このような生命観に立つとき、「個体が生きる」という言い方は正確な表現ではないことになる。「ヒトが生きる」としても同様である。なぜなら、個体析出の過程である個体化過程においてのみ、個体は個体と成り、環境はそれに対する環境と成り、相互作用的な関係がそこに成立することが「生きる」ことだからである。
 では、「生きるとは個体に成ることだ」と言えばよいであろうか。これでもやはり十分に正確ではない。なぜなら、生きることは、個体に成ることで完了することではなく、個体析出は、環境世界に提起されている諸問題に対する暫定的かつ部分的な解決でしかないからだ。
 「生きるとは、個体を生みつつ個体を超えていくことだ」と言えば、よりシモンドンの生命観に相応しい表現だと言えるだろう。しかし、「生きる」は、どこまでも「こと」であって、「もの」あるいは実体ではない。個々の生命を超えた永遠に生成する大生命のような形而上学的存在は決してそこには仮定されていない。個体化過程が何か最終的な完成に向かっているという目的論的構図もそこにはない。
 その都度提起される諸問題の解決の試みを通じて、暫定的・部分的解決を見出しつつ、より高度化し、自律化する統合化過程、それが生きることである。個体は、その過程の中で、或る問題群に対する暫定的・部分的「答え」として、時間・空間的に有限な形を取って現れる。