内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

技術の社会性

2016-07-20 00:00:00 | 講義の余白から

 技術の問題とりわけ科学技術の問題を正面から取り上げる哲学研究も最近では珍しくなくなったが、そのような研究の発展は、技術のもたらす革新の積極面の評価に伴ってというよりも、現実の中での技術の適用がもたらすさまざまな弊害や危険の拡大と深刻化に伴ってのことだと言った方がむしろ妥当ではないだろうか。
 しかし、まさにそういう時代であるからこそ、技術をめぐって現実の中で今発生している問題について正確な科学的知見に基づいてプラグマティックに検討する必要がある一方、他方では、技術とは何かという問題を根本的・徹底的に問うこともまた不可欠であり、この後者の課題に取り組むのが哲学の仕事の一つであろう。
 そのような哲学的思考のために参照すべき本は数多くあるが、今回の集中講義は、1930年代半ばの日本において技術について根本的なところから哲学的に考えようとしたいくつかの試みを読みながら、現代の高度技術社会に起きている問題について考えることをその目的としている。
 和辻に関して言えば、技術を特に正面から論じた論考はないとはいえ、技術と倫理との関係を考えるときに和辻の『倫理学』はやはり重要文献の一つだろうと考え、取り上げることにした。
 西田に関しても、技術論としてまとまった著作があるわけではないが、その技術に関する考察を含んだ論文には今日でも考察に値するいろいろな洞察が含まれている。特に、技術と身体との関係を考える上で「技術的身体」という概念は役に立つだろう。
 1930年代日本において技術を正面から論じた哲学者としては、まず戸坂潤を挙げるべきだろうが、それにもかかわらず今回戸坂を取り上げないのは、一つは時間的制約からだが、より大きな理由は、これまで戸坂の著作には親しんできていないという私自身の勉強不足である。今後の課題ということで寛恕を請いたいところである。
 今回取り上げる三人の哲学者のうち、技術をまさに哲学の問題として主題的に論じたのは三木清である。演習では、『構想力の論理』第三章「技術」の読解に一日充てるが、三木の技術哲学を本格的に検討するためには、さらに『技術哲学』をも当然読まなくてはならない。しかし、これも時間的制約から無理。そこで、その代わりになるわけではないが、当日の導入として、同書に附録として巻末に収められた小論考二つのうちの一つ「技術學の理念」(『三木清全集』第七巻所収)を紹介することにした。
 同論考は『構想力の論理』に先立って、1936年に発表されている。専門家を読者として想定した哲学論文ではなく、技術の発達に関心のある当時のより広い読者層を想定して書かれたと思われる文章なので、それだけ読みやすい。当時の日本の状況を反映した記述(例えば、「民族と技術」「日本精神と技術」などの表現)もあり、今日の観点からはそのような箇所に違和感を覚える向きもあるだろうが、まさにそのような表現が横行する時代であったからこそ、技術の問題をより根本的なところから考え直す必要があることを説くことに三木自身の意図はあったと思われる。
 三木の技術論が特に強調する一点は、技術の社会性である。「技術は社會的なものであり、人間は技術によって社會的に結び附いてゆくのである。技術のこの根本的な社會性が強調されなければならない。道具を作る動物として定義される人間は社會的動物として定義されねばならぬ。」(『全集』第七巻三一四頁)