内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生命ある個体に訪れる死の二つの意味(三) ― ジルベール・シモンドンを読む(110)

2016-07-07 05:56:35 | 哲学

 ある一定の大きさにまで成長した個体は、己を構成する複数の器官へと自己差異化し始め、いずれは個体としての死に至る。この事実が示していると思われることは、あらゆる差異化は排除され得ない何らかの残滓を残し、この残滓が個体化された存在に負荷を負わせ、この負荷が以後の個体化の可能性を減少させるということである。
 老化は、まさにこの更新能力の減退であり、この減退傾向は、例えば、怪我からの回復が年齢とともに遅くなるという事実によく表れている。一定の構造を持ち、諸器官がそれぞれ機能的に特化された、あるいは習慣による自動的合成が一定化された個体は、既得の構造が破壊されたときに新しい構造を作り出す能力が次第次第に減退していく。
 すべては、最初に与えられていた潜在性の資本が次第に減少していき、存在の不活性が増大していくかのように進行する。個体化の進行に伴う成熟作用によって、個体の流動性・柔軟性は次第に失われていく。
 このような不活性・硬直性・粘性の増大は、その過程で獲得されていく「体勢」、つまり環境への適応性が豊かになっていくことで補償されているように見える。ところが、この適応は永続するものではない。環境が変われば、そこで新たに出てきた問題群に対して解決を与えることができるとは限らず、既得の構造と機能が甲斐なく反復されるだけに終わることがあるからである。
 この意味で、生命ある個体が永続的ではないという事実は、偶発的なことと考えられてはならないだろう。生命は、その全体においては、一連の転導過程として考えることができる。一個の生体に訪れる最後の出来事としての死は、減衰過程の完遂に他ならない。この減衰は、個体化作用としての各生命作用と同時に進行している。あらゆる個体化作用は、個体化された存在に死を少しずつ配合していく。個体はかくして自己から排除できない何ものかを徐々に己の内に蓄積させていく。この減衰過程は、しかし、個体を構成している諸器官の状態が悪化していくこととは区別されなくてはならない。なぜなら、この減衰過程は、個体化活動にとって本質的であり不可欠だからである。
 個体発生の初期に与えられた非限定性は、確定され、緊張を失い、不活性な負荷に過ぎない非限定性に次第に取って替わられていく。個体化された存在は、初期に与えられた多様な潜在性から始まって、準安定的均衡をそれぞれ一時的に保つ継起的な構造化を通じて、区別を失い等質化された全体である最終的な解体へと向かう。
 生命ある個体が己の内に諸構造と諸機能とを徐々に統合していく過程は、生誕の始まりに与えられた可塑的非限定性と最後に到来する不活性で等質的な非限定性との間の伝達過程なのであり、この過程こそが一個の個体によって生きられた生命に他ならない。