内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

前個体的なものが個体の行動を通じて集団において共有される ― ジルベール・シモンドンを読む(118)

2016-07-15 00:40:32 | 哲学

 今日明日でILFI第二部第二章第二節第三項 « Limites de l’individuation du vivant. Caractère central de l’être. Nature du collectif » の最後の段落を読み、シモンドン読解連載に一区切りつける。
 今日15日午前8時15分ストラスブール駅発のルフトハンザ・シャトルバスでフランクフルト空港に向かう。そこから午後1時40分発の成田行きのルフトハンザ便に乗る。東京に一時帰国するときは、これまではいつもストラスブールからTGVでシャルル・ド・ゴール空港まで行って、そこからJALかANAかエールフランスの羽田行きに乗っていたのだが、この夏はパリからの便がどれもあまりにも高かったので、初めてフランクフルトからルフトハンザ便を使うことにした。16日朝8時過ぎには成田に着く。成田エクスプレスに乗って渋谷で降りる予定。そこからはタクシーに乗る。昼前には実家に着けるだろう。
 16日から来月17日までの一月あまり、東京の実家に滞在する。その間、拙ブログの記事は、折にふれての雑感が主な内容になるだろう。
 さて、第三項最終段落の読解を始めよう。

 集団は単に諸行動の直接的・平準的相互作用に尽きるものではない。各行動は集団において意味として働く。なぜなら、集団における各行動は、ばらばらに分離されたままの個体には解くことができなかった問題に解決をもたらし、他の諸行動にとっての象徴として機能しうるからである。
 諸行動間の協働は、単に事実上そういうことがあるというだけではなく、ある結果に事実辿り着いた一つの連帯性に尽きるものでもない。各行動は、それが他の諸行動にとっての象徴として構造化されているかぎりにおいて、個体レベルでの過去と未来とを一致させることができるようになる。
 集団における現前の次元が存在するためには、複数の個体が単に事実として寄せ集められただけでは不十分であり、集められていることそのことがそれらの個体にとっての固有な次元に「書き込まれ」(s’inscrire)ていなければならない。言い換えれば、それらの個体間にあって、現在において一まとまりになっていることそのことを媒介として、現在と未来とが互いに他の存在にとって相関的なものとなっていなければならない。
 現在は、そこにおいて意味が働くところであり、それによって過去から未来へ、未来から過去への共鳴伝達が成立するところである。ある存在と他のある存在との間の情報交換は現在を媒介とする。それぞれの存在が、己自身に対して、つまり、己の過去と未来との間で、相互作用的になるのは、各存在が他の諸存在との間に相互作用性を現在において共有する限りにおいてのことである。
 個体内統合は「通・超個体的統合(intégration transindividuelle)」と相互作用的関係にある。現前という範疇は通・超個体的なものの範疇でもある(「通・超個体性」については3月15日の記事を参照)。
 構造と機能は、個体内と個体間とに同時的に存在し、したがって、ただ単に外的あるいは内的なものとして定義することはできない。個体間のこの通底的関係は、個体それぞれは己を超えるより広い現実として増幅されるという事実を表現している。
 その増幅は、個体が己の内に抱えている問題的な緊張である何ものかの媒介によっている。この何ものかに何らかの形が与えられること(information)で、それが個体間で伝達・共有可能な問題に変換される。個体内に抱えられたこの通底的な問題的現実は、それを前個体的負荷と名づけることができるだろう。
 個体の行動は、知覚レベルでの複数性を動的な統一性に変換することで知覚レベルでのズレの解消を図ることであり、個体化以前の状態では未解決のままに残されていた問題をそれに対する解決策ととも現在に繰り込むことである。
 純粋な個体化存在は、複数の知覚像の彼方に超出するのに必要なものを己の内に備えていない。個体的存在は、もし知覚機能しかもっていなければ、己自身と折り合いをつけることができない。なぜなら、己のまわりに見えるのは互いに無関係な知覚像の継起だけだからである。
 このような意味で行動性を一切欠いた純粋知覚は、次のような精神疾患に似ている。
 あるドラマをテレビで見ていて、画面上に継起的に現れる複数の場面がストーリーとして連続していることがまったく把握できず、それぞれの場面を個々ばらばらの映像としてしか見ることができず、その結果として、全体を一つのドラマとして理解することができない。
 裏返して言えば、通常の知覚は、多かれ少なかれ、過去と未来へと広がった一つのストーリーの中の行為主体としての個体によって実行されているということである。