内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

父の命日に想うこと―個としての裸形の実存

2016-12-14 14:02:38 | 雑感

 今日十二月十四日は父の命日である。四十一年前のこの日に亡くなった。四十九歳の誕生日を迎える前日のことだった。上顎癌という比較的珍しい癌が死因であった。築地の国立がんセンターのベッドの上で亡くなった。母は当時四十五歳、私は十七歳で高校二年生、妹は十三歳で中学一年生であった。
 余命幾ばくもないことは、半年ほど前から本人も家族もわかっていた。いや、父自身はもっと前から覚悟していただろう。母と私はその病床の枕元で最期を看取ることができた。その壮絶な最後の瞬間を記憶している者は、しかし、この世にはもはや私しかいない。
 母も二年前の十二月二十二日に亡くなった。八十四歳だった。母の誕生日は十二月十日。奇しくも、両親とも十二月に生まれ、十二月に亡くなった。父は四十九歳になる前日という、いかにもその無念の人生を象徴するかのような日になくなり、母は、誕生日の三日後に親しい人たち大勢に囲まれて楽しく最後の誕生日を祝い、その九日後に自宅で静かに息を引き取った。母は私の帰国までは頑張ると、私の帰国を待ってくれていて、最後の五日間は実家の枕元で一緒に過ごすことができた。
 父が亡くなったときの年齢よりももう十ばかり多く徒に馬齢を重ねていることになる。次第次第に繋累が少なくなり、その意味でこの世との繋がりも細りゆく中、個としての裸形の実存が否応なく剥き出しにされてゆく。