内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本の哲学が勉強したいのなら、ストラスブール大学に来るがよい! ―『K先生の黄昏恍惚夢想録』(発禁)より

2019-11-16 21:46:08 | 哲学

 今年度に入ってから、つまり9月からのことですが、日本学科の学生たちの中から、私個人としてちょっと意外かつ嬉しくなる反応がポツポツと出て来るようになりました。日本の文学・歴史・思想・社会・言語・芸術・芸能等への関心と哲学的な問いとをそれぞれの仕方でリンクさせた質問や問い合わせを受けるようになったのです。それは、昨年までは絶望的に乏しかったことなのです。
 今年の修士一年の学生たちが日仏合同ゼミのためにかなり哲学的なテーマを自発的に選んでくれていることは、今月13日の記事で話題にしたので繰り返しませんが、それはやはりとても嬉しいことでした。
 9月2日、新入生オリエンテーションの日、全体説明会の後、個別質問を受け付けているとき、一人の女子学生が、「先生は、6月に「日本思想史における積極的無常観」ついての講演をなさっていますよね。その講演の録画や資料はありませんか」と聞きに来たのです。残念ながら、この講演は原稿なしでパワポだけで行い、録画もされていなかったので、「もうしわけない。記録も資料も何もないのです」と答えるしかありませんでしたが、入学したばかりの一年生がこのテーマに関心を持ってくれていること自体に驚き、かつ嬉しく思いました。
 昨日、片渕須直監督の講演の直後、9月に一度オフィス・アワーときに質問に来た(質問内容は忘れましたが)二年の男子学生が「先生、「研究入門」の授業のレポート課題図書として丸山真男の『日本政治思想史研究』を選んだのですが、全部読まなければいけませんか」と聞きに来ました。「いやいや、一章だけ読めばいいよ。たとえ仏訳でも、全部読めとは言わないよ。自分で自由に選んでいいよ」と答えたところ、「わかりました。難しい本ですが、とても面白いです。頑張って読みます」と健気なので、「嬉しいね。レポート、楽しみにしているよ」と激励いたしました。
 その学生が来る前に、「先生、22日にパリ・ナンテール大学で発表されますよね。それって動画配信とかありますか」と聞きに来た女子学生がいました。「ないと思う」と答えると、「じゃ、パリまで聴きに行くしかないってことですか」と言うので、「まあ、そういうことになるけど……」と呟くことしかできませんでした。その学生に私は見覚えがなく、つまり、私が授業を担当してない学部一年生か二年生なのです。このシンポジウムについては、その日休講にしなければならない三年生には理由説明として知らせておきましたが、一・二年生には、私自身は何も伝えていませんでした。シンポジウム責任者から送ってもらったポスターを学科教員室がある階の廊下に貼っておいたので、それでも見たのでしょうか。
 これも昨日のことなのですが、「近代日本の歴史と社会」の授業で、分野ごとに「近代」概念は異なるという話を、文学史、芸術史、言語史、社会史、経済史・政治史などを例に挙げながら、参考文献としては苅部直『「維新革命」への道』(新潮選書、2017年)を引用しつつ、しかも「寛容」「主体」など、それぞれ明治になって « tolérance » « sujet » の翻訳語として使われることによって、原語の原義についてどのような概念的忘却が発生してしまったかという話も折り込みつつ、授業を展開しました。たとえ日本語で日本人向けに話したとしても、かなり高度な内容でした。ところが、ちょっとこっちがびっくりするくらい、というか、正直、少し気味が悪いくらい、教室に静かな緊張感が漲り、最後まで全員真剣に聴いてくれたのです。
 これらすべて、私のあまりにも楽天的な思い込み或いは勘違いに過ぎないのかも知れません。それでもかまいません。黄昏れていく妄想老人の他愛もない戯言としてお聞き流しくだされ。
 妄想ついでにあと一言、許されたし。「日本に関心をもつフランスの若者諸君よ、日本の哲学・思想についてフランスで勉強したいのなら、私のところに来るがよい!」