内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

きめ細かな個別指導に定評があるK先生の日本語鍛錬道場としての演習 ― 月刊『K先生の耄碌妄言集』(廃刊)より

2019-11-19 19:01:33 | 講義の余白から

 二年前から、修士二年生の演習で、学生たちがフランス語で書かなければならない修士論文の要旨あるいはその論文の一部を日本語で書くという課題を課している。長さは4000字以上。一学期をかけて仕上げさせる。その間、彼らの文章を徹底的に添削していく。
 この課題は、課したこちらもかなりの重労働になる(じゃあ、やめりゃーいいじゃん)。そもそも他人の文章の添削は容易ではないという一般的な困難がある。しかし、それは序の口である。
 何を言っているのかわからない奇怪な文章(とも呼べない代物)の解読を強いられるとき、狂気すれすれまで頭が混乱し、「助けてぇ~」と窓から飛び降りたくなる衝動を必死で抑えなくてはならないのは、一度や二度ではない。
 書いた本人の胸ぐらをつかんで、「何年日本語勉強してんだよ。何回もこんなアホな間違いを繰り返して恥ずかしくね~のかよ」と怒鳴りつけたくなる衝迫を胸に秘め、「提出する前にもう少し自分で見直すようにしましょうね」と、偽善で引きつった作り笑顔と震えた小声で助言するのは、ストレス過剰で精神に異常を来しかねないほどである。
 もちろん、そんな文章ばかりではない。それどころか、そのまま日本の一流大学の学部四年次のレポートとして提出しても立派に通用する日本語で書いてくれる学生が、少なくとも二人いる。二人とも私が修論の指導教官だ。彼らの文章の添削は、彼らと討議しながら行われる。より適切な表現を一緒に探求しつつ、内容・構成についても議論する。それが事実上、彼らの修論の指導にもなっている。この作業は、私にとっても勉強になることが少なくない。
 かくのごとく、同じ修士二年生といっても、彼らの間の実力差はベーリング海峡よりも広くかつ深い(って、意味不明なんですけど)。いささか誇張して言えば、注意力散漫で成績もパッとしない小学四年生と一流大学に合格できるレベルの小論文が書ける高校三年生とが同じ教室にいるのである。
 このような条件下では、一斉授業(って言ったて、全部で八人なのですが)は、不可能、とまでは言わないまでも、教育効果において著しく劣ることはご理解いただけるであろう。そこで、「きめ細かな」個別指導で定評あるKスクールになる。課外授業として日本語道場でも始めるかなあ。