内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

患者それぞれに相応しい呼び方によって患者の体に声で触れる ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(6)

2020-08-03 12:51:18 | 哲学

 まず昨日の記事の訂正です。Aさんが住田さんの次にプライマリーナースとして受け持つ患者が入院してくるまでの間を二カ月間となっていましたが、これは私の読み間違いで、半年間に訂正いたします。昨日の記事もそう訂正してあります。
 さて、Aさんは、住田さんを亡くした約半年後、横井さんという患者を受け持つことになります。そして、受け持ち始めてから半年後、横井さんとも劇的な別れを経験します。Aさんにとって二人の死はインパクトがとても大きく、「インパクトは何だろう天秤にかけられないぐらい私の中で大きい意味合いをもっているんです」と語っている。
 横井さんは二〇代の男性であった。一〇代後半に、バイクに乗っていて自動車に衝突して受傷した。受傷後約二年後、名前を呼ぶと開眼したり、追視が見られるようになった。不確実であったが指示によって右手を握るようにもなった。
 受傷四年後、Tセンターに入院した。入院時の情報には、自力移動はまったくできず、発語もなく、意思疎通ができない。寝たきりの状態であった。
 診断は頭部外傷による植物状態とされており、気管切開をして、食事は経胃瘻的に行われていた。指示により右下肢、右手の運動はかなり確実にできたが、これを使ってのイエス、ノーの応答は確立されていなかった。
 Tセンターでは、開設以来、一年に一、二名の入退院しかありません。新たな入院患者を受け入れることは一大イベントです。患者とは言語的コミュニケーションがとれませんから、患者とスタッフが互いに馴染むには時間がかかります。Aさんも横井さんを受け入れうるのに最初は戸惑いを感じたそうです。
 入院して二カ月くらい経ち、横井さんの名前をスムースに呼べるようになったことを契機に、Aさんは横井さんに慣れ始めたと言います。
 ここだけ読むと、なぜ名前をスムースに呼べるようになるのにそんなに時間がかかるのかと疑問に思えますが、Aさんにとって、それぞれの患者さんにとってもっともふさわしい呼び方を見つけることが患者さんとの関係を形成していくうえでとても重要であることが後ほどのインタビューを読むとわかります。本書では患者さんたちの名前はすべて仮名なので、現場で実際にAさんが患者さんたちをどう呼んでいたのか、本当のところはわかりませんが、それぞれに親しみを込めた呼び方を選んでいたことは想像できます。
 Tセンターでは、患者さんたちに敬意を表するために名字に「さん」づけで呼ぶことが原則とされていましたが、Aさんはそれに反発を感じていました。「さん」を付ければ、患者をひとりの人間として尊重したことになるのか、それでコミュニケーションがうまくいくのか、それぞれに個性をもった患者との関係を作っていくなかで呼び方も決まってくるのではないかとAさんは考えています。
 これはとても大切なことなのではないかと私は思います。患者は看護師の呼びかけに反応するとは限らず、大脳の左半球が激しく損傷している場合、看護師が発した言葉がどこまで患者に理解されているかも不確かです。名前を呼ぶということは、一般的な意味で話しかけるためではなく、声で患者の生きた体に触れることなのだと思います。ですから、患者をどう呼ぶかは、看護師にとって、手で患者の体にどう触れのるがよいかということと同じくらい、あるいはそれ以上に重要な問題なのでしょう。少なくとも、Aさんはそう考えていたのだと私は思います。
 Aさんが横井さんについてのインタビューの中で「お互いに馴染むこと」ことに特に注目しているのは、最初に受け持った住田さんのように、センターで長い期間過ごしており、看護師にも慣れている人とは違い、横井さんの場合は「いきなりプライマリーとして一から関わりを、人間関係をつくっていかなきゃいけない患者だった」ためであると言っています。それは、「ほんとに慣れたんやなあっていうところは、やっぱりうちらが細かく目を見て、その表情の変化とか、態度とかっていうところから理解していかなあかん」ということです。