内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「正しく恐れる」ことの難しさ ― 常軌を逸した恐れ慄き、投げやりな悲観主義、根拠のない楽天主義、それらのいずれにも傾かずに中庸の途を協働しつつ探し続けることの難しさ

2020-08-26 23:59:59 | 雑感

 コロナ禍が世界中を襲い始めてから、日本のメディアを通じて、何人かの科学者の方たちが一般市民に向けて、「正しく恐れる」ことの大切さを強調されていました。その心は、「正しい知識に基づいて、適切な対策を取り、過度な恐れと不安を抱かず、良識ある行動をする」ということだと理解しました。
 その限り、実にもっともなお話だと思いました。しかし、現実には、正しく恐れることはとてもむずかしい。
 なぜなら、何が正しい知識なのか、素人にはよくわからないからです。専門家の方たちの仰ることも必ずしも一致していないし、ちょっと専門的な話になると、私のようなド素人にはついていけない。先生方もそのへんを配慮して、できるだけわかりやすく話そうとしてくださっているとは思いますが、わかりやすさはしばしば正確さを裏切ることによってしか得られません。
 それに、これは2011年の福島原発事故のときにも痛感したことですが、専門家の先生方の説明が正しいかどうかを科学的に正しく判断する知識が一般人にはないということです。専門家の先生方の仰っていることは正しいに違いないと一般市民は信じたいわけですが、その信じる根拠はまったく科学的ではありません。権威ある研究機関の長であるとか、有名だとか、なんか誠実そうな人だとか、およそ科学的内容とは関係のない理由で私たち一般人は専門家たちを信じるしかない。
 ところが、残念なことに、そういう立派な先生方の仰ることも、必ずしもいつも正しくはないことを私たちは知っています。その理由はさまざまで、例えば、今回の新型コロナウイルスについては、まだわかっていないことも多いわけですから、かつて先生方の仰っていたことが後に誤りだとわかっても、先生方を責めるわけにはいきません。科学者として、確実なことしか言わないようにすることが、現実の対策の実行を遅らせることだってありえます。
 つまり、「正しく恐れる」ために必要な確実な根拠を私たちは持つことができないままでいるというのが現状なのではないでしょうか。
 常軌を逸した恐れ慄き、投げやりな悲観主義、根拠のない楽天主義、それらいずれにも傾かずに、ある程度のリスクは覚悟して、置かれた状況の変化への絶えざる注意とその都度与えられる情報の信頼性の吟味とを通じて、必要な軌道修正を適宜行いながら、「中庸」の途を、みんなで議論しながら探っていくほかはない、それが良識ある市民の取るべき態度であると私は考えていますが、それがどれだけ難しいことなのかを現実は私たちに示しています。