内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人の死は、「最終的に完全に沈む心の中の底のところで、静かに積もっていって初めて受け入れられる」― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(7)

2020-08-04 06:21:05 | 哲学

 Aさんと横井さんとのつき合いは、横井さんの死亡退院によって半年ほどで終わりを告げました。しかも、二人が互いに馴染み始めたころに横井さんの状態に大きな変化が起こりました。横井さんは、肺炎の発症を契機に、水頭症と髄膜炎になります。そのため人工呼吸器をつけたり、脳室ドレナージを三本挿入するという手術や処置が短期間のうちに実施されました。
 当時を振り返って、Aさんは、あのときは急な外科処置に追われ、ほんとうに自分は全力を尽くしたかという後悔が残っていると言います。横井さんが自分のことをプライマリーと見てくれていたかどうか、信頼を寄せてくれていたかどうか確信が持てないままに終わってしまったと感じています。
 終わり方がAさんにとってとても衝撃的だったこともあり、横井さんの死後一ヵ月もたたないうちに新しい患者のプライマリーナースになっても、横井さんのことを引きずってしまい、Aさんはフラッシュバックに苦しめられます。
 横井さんが亡くなってちょうと二ヵ月がたったころのインタビューで、Aさんは横井さんとの経験を語りながら、「思い出せるうちは思い出しておきたい」と言います。ところが、それから約一〇ヵ月後のインタビューの際に、「今たぶん、その『思い出せるうちは思い出しておきたい』の『思い出せるうち』からはずれてきているんですよ」という変化が起こっています。この死者に対する関係の変化をAさんは実に印象深い表現を使って語っています。躊躇いつつ慎重に言葉を選びながら紡がれていくその語りは、私が本書でもっとも心を動かされた箇所でもあります。

記憶ってだんだん薄れていくじゃないですか。で、薄れていくことをなんだろう、寂しいと思わなくなってきてますね。自分の中でたぶん、それは消化されて、きちんと消化されてあのう、受け入れられてきてるってことなんじゃないかと私は思うのだけれど。……その頃の気持ち、それを言った気持ちがどうかっていうのは、う~んとなんて言うんだろう。上手く、上手くこう再現しにくいんだけれども。……自分の中でこうなんだろう、イメージとしてすごく静かにこう、自分のこう気持ちの中でその人の存在があったっていう記憶とかがこう、静かぁに沈んでいくというか、底の方でこう積もっていく、うん、そんなイメージがあるんですわ。よく、なんだろう、海の中、海の底って、本当の深海の方って海の中で雪が降ってるみたいな……すごく静かに音もなく降り積もっていくっていうのがあって、それに近いイメージが自分の中にはあるんですわ。人の死を受け入れるっていうことって。で、最終的に完全に沈む心の中の底のところで、静かに積もっていって初めて受け入れられるのかなあって。……自分の中で不安定にこう揺れながら落ちていく、だけど最後のところでこう音もなくフッとこう、納まる所に納まるっていうことが人の死を受け入れる、受容することなのかなってイメージが自分の中にあって、そうなってくると自分の中で、彼の存在、その人の存在っていうのは、過去のものと言ってしまったらあれだけれども、感傷的なレベルで捉えられるものではなくって、自分の中の体験とか経験、そういう形で多分納まるんじゃないかと。でも、その不安定に落ちてきている間っていうのは、けっこう思い出すにしても感傷的なイメージが大きい。……住田さんが亡くなった後も私、スーさんの〈手の感触〉とかずうーっと残ってたんですよ。せやからずうーっとずうーっと残ってて、でもその〈手の感触〉が思い出されるうちは、まだ私の中でスーさんはあのう、亡くなった人ではあるんだけれども、自分の中で、たぶん日常生活でなんらかの影響を与えてきそうな。

 いつまでも忘れまいと自分に強いるのでもなく、逆に無理に忘れようとするのでもなく、思い出せるうちは思い出しておきたいという気持ちはそのままに日々を過ごしていくうちに、実際にどれだけの時間がかかるかは場合によるとして、自ずと死者の記憶が薄れていく。手にあった感触が曖昧になっていく。それは、しかし、亡くなった人の存在が忘却されてしまうということではなくて、「心の中の底」でその死が受容されていくことなのだというAさんは、人間の有限な存在とその記憶が最終的に帰っていく「場所」を自らの経験において実存的に捉えることができているのでしょう。