エマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学 混合の形而上学』は、ネット上でちょっと検索しただけの印象だが、日本でもいくらか注目されているようである。著者は1976年生まれのイタリア人で、現在パリのフランス国立社会科学高等学院の准教授。前著 La vie sensible(Bibliothèque Rivage, 2010 ; Rivage Poche, 2018)はイタリア語からの翻訳だが、本書も今年上梓された最新著 Métamorphoses(Bibliothèque Rivage)も本人よってフランス語で直接書かれたようである。そのせいかどうか、語順や不定法の名詞的用法の多用にちょっと違和感を覚えるところがあるが、全体として大変わかりやすいフランス語で書かれている。コッチャの思想についての私なりの感想は、上掲三書をすべて読み終えてからにしたいので、今日の記事では、ビュルガが引用している箇所についてのみ、感想を述べるにとどめる。
Il estime que l’être humain ne peut vivre sans « arracher [la] chair » d’autres êtres vivants et que, « pour le dire négativement : notre vie est toujours un sacrifice d’autres êtres vivants, animaux ou végétaux », mais que « pour le dire positivement : notre vie est la chance de réincarnation donnée à des poulets et à des salades » … (F. Burgat, Qu'est-ce qu'une plante ? op. cit., p. 14)
この引用は、『植物の生の哲学』からではなく、2019年3月29日付ル・モンド紙の記事 « Condition animale : les antispécistes vont-ils trop loin ? » (par Catherine Vincent) の中に引用されていたコッチャの発言の孫引きである(この点、昨日の記事の末尾の説明が誤っていたので、訂正しておいた)。しかもコッチャの発言の一部しか引用しておらず、発言の意図が伝わりにくくなっている。上掲の引用部分を含むは発言は以下の通り。
« Nous ne sommes pas des plantes, nous ne sommes donc pas capables de vivre sans toucher à d’autres êtres vivants, sans leur arracher leur chair, leur vie et leur énergie, rappelle-t-il. Pour le dire de façon négative : notre vie est toujours un sacrifice d’autres êtres vivants, animaux ou végétaux. Pour le dire de façon positive : notre vie est la chance de réincarnation donnée à des poulets et à des salades. »
私たちは植物ではない。私たちは、だから、他の生き物たちに手を付けることなしに、彼らの肉を剥ぎ、彼らの命を奪い、彼らのエネルギーを奪い取ることなしに生きることはできない。このことを否定的に言えば、人間の生命は、動物であれ植物であれ、他の生き物たちの犠牲の上に成り立っている。それを肯定的に言い直せば、私たち人間の生命は鶏や葉菜類の転生の機会なのだ。
この発言には続きがある。ル・モンド紙の記者の文章の中に組み込まれているので、それも含めて引く。
Plutôt que d’essayer de se blanchir la conscience en ne mangeant pas les êtres qui souffrent, il serait préférable de « resacraliser l’acte de l’alimentation, d’en faire une sorte de rituel qui nous oblige à nous souvenir, chaque fois qu’on mange, qu’on prend la vie d’une autre espèce ». Pour l’auteur de La Vie des plantes (Rivages, 2016), l’antispécisme, en se préoccupant des intérêts des bêtes, a « étendu le narcissisme humain au royaume animal ».
苦しみを味わう生き物たちを食することを止めて良心の潔白を証明しようとするよりも、食することを、再度神聖化すること、食事をするたびに他の種の命をいただいていることを私たちが思い起こさねばならないようにする一種の儀式にするほうが望ましいとコッチャは言う。
生き物の命を奪う殺生を五大罪の一つとする仏教からすれば、今頃何言ってんの、という話であるが、西洋では、種間にヒエラルキーを認める spécisme は大変に根強く、antispécisme という言葉が登場するのは一九九〇年代のことに過ぎない。コッチャが批判しているのは、このアンチ・スペシズムが人間の自己愛を動物の王国にまで拡大したに過ぎないことである。肉食を全否定したところで、人間の生命が他の生命の犠牲の上にしか成り立たないという事実に変わりはない、と言いたいのであろう。