植物に意識・記憶・痛苦・感情・知性を認める植物学者たちがいる一方、そのような立場に否定的な植物学者たちもいる。この対立は、同じ概念的な枠組みの中で、どちらか一方が正しくて、他方は間違っているという形で決着がつけられる話ではなさそうである。同じ学問的分野での相容れない仮説の対立というよりも、植物の生態を記述する概念の枠組みそのものの選択とその選択を支える生命世界像の対立と見るべきだと思われる。
例えば、植物の知性の有無については、イタリアの植物生理学者ステファノ・マンクーゾとサイエンスライターのアレッサンドラ・ヴィオラの共著『植物は〈知性〉をもっている』(NHK出版 2015年。原書イタリア語版は2013年刊行。仏訳も2015年。文庫化は2018年)が前者の立場を代表する書物の一つであり、それを否定する立場を表明しているのが植物生態学者のジャック・タッサンの À quoi pensent les plantes ? Odile Jacob, 2016(『植物たちは何を考えているのか』未邦訳)である。後者の次の一節を読むと、どのような意味で植物の知性が否定されているのかわかる。
L’intelligence est la capacité à ajuster son comportement au cours de la vie. Elle suppose une aptitude à choisir, liée à une faculté d’apprentissage que n’autorise qu’une mémoire véritablement intégrative qui, sachant se souvenir, sait affronter une situation nouvelle. Or rien n’en révèle la présence chez la plante, où l’on ne distingue au mieux que des traces plus ou moins persistantes. Non, la plante n’est assurément pas intelligente.
知性とは、可変的な生命世界の諸条件に生体の行動を適応させる能力であり、その能力は、選択能力を前提とし、その選択能力は、過去の出来事を統合化し、新しい状況に立ち向かうことができる記憶力によってのみ可能になる学習能力と結びついている。ところが、植物には、環境の変化後、一定期間ある残存する化学物質あるいは変化の何らかの痕跡以上のものは見いだされえない。したがって、植物に知性はない。
言い換えれば、記憶が脳の存在を前提とするかぎり、脳を持たない植物に知性はない。知性とは、経験した出来事を記憶・統合化し、後になって、状況に変化が生じたとき、その変化に対処するためにその記憶を適用することができる脳の機能のことだとすれば、植物にはそのような過去の記憶が不可能である以上、知性の存在は認められないという帰結になるのは避けがたい。
しかし、これは人間の知性をモデルとした「人間中心主義的」論証であるから、それとして内的整合性をもっているとしても、それだけで植物知性論を完全に反駁したことにはならない。植物固有の環境への適応力を基礎モデルとして生物の環境適応のためのストラテジーを総合的に捉えるパースペクティヴにおいては、人間の知性とは異なったストラテジーを選択する植物の知性を認める生命世界像も可能になってくるだろう。