新年度から新たな任地へと移る同僚が担当していた学部三年生必修の Compréhension des médias という週一時間の授業を九月から私が代わりに担当する。自分が適任だとはとても思えないのだが、その同僚が新しいポストに決まったのが時期的にかなり遅く、その時点から適任を探す時間がなく、今年度は、不肖の身と知りつつ、私が引き受けることにした。
日本学科の授業の一つだから、当然日本のメディアが対象になるわけだし、科目名からも察しがつくように、メディアが供給する情報をいかに読み解くかということが課題の授業であり、現在さまざまなメディア(情報供給媒体)を通じて日本人が日々受け取っている情報のリテラシー(なんかいけ好かない言葉であまり使いたくないのだか)を身につけるとかなんとか、シラバスには書かれるような内容の授業になるのが普通であろう。
しかし、天の邪鬼な私は普通が嫌いである。奇を衒うのも好きではない。極端に走るもの柄ではない。ただ、できるだけ本格的かつ長期的に応用の効く知見と方法を学生たちに身に付けさせたいとは、どの授業においても切に願いつつ、授業内容を練り練りするのを常としている。
で、どうするか。メディアとは何か、という話から始める。とは言いながら、この問いは、1964年に刊行され、センセーションを巻き起こしたマクルーハンの『メディア論』を出発点とするものではない。
今日マス・メディアの意味で使われる「メディア Media」はラテン語の medium の複数形から来ている。この語は、中世において、論理学の用語として三段論法の小前提を意味したが、英国では、「そこにおいて現象が生じる場所 milieu」という意味でも使われた。
この意味で、メディアとは、ある現象が発生する条件を備えた環境のことであって、いわゆる情報そのものでもないし、それを「客観的に」伝達する媒体でもない。メディアとは、情報を発生させる可能性の条件であって、メディアがなければ、そもそも情報は存在し得ない。
とまあ、ざっと言えば、こんな挑発的な原理論から授業を始めるつもりである。
それに対する学生たちの反応はすでにおおよそ見当がついている。「あ~ぁ。K先生、またしてもテツガクの授業始めちゃったよ。私たち日本学科の学生なんですけど。どうしてこういう拷問みたいな話なるんでしょうか。これって、アカハラじゃネ?」とかなんとか、ぼそぼそ呟く連中が少なくないであろう。ご愁傷様である。
何、心配することはない。常日頃言っているように、不平不満がある場合は、学科長に直接相談すればいい。彼がなんとかしてくれるであろう。