内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み特別企画「植物哲学序説 ― 植物の観点から世界を見直すとき」

2020-08-07 23:59:59 | 哲学

 『語りかける身体 看護ケアの現象学』を読みながら、それと並行して考え、関連書籍を集めていたテーマがある。そのテーマとは、「植物とはなにか」である。この問いは、「人間性・動物性と区別される植物性とはどのように定義されうるか」「植物固有の存在様態とはどのようなものか」「植物に知覚・意識・感情・痛苦はあるのか」などの問へと展開される。このような問題について考え始めたきっかけは、『語りかける身体』のテーマである遷延性植物状態患者の状態が植物とのアナロジーで記述されるようになった理由はなんだったのかという問いにある。
 この最後の問いの答えは、『語りかける身体』第一章の注14に示されている。フランスの生理・解剖学者ビシャ(1771‐1802)は、動物の機能を臓器性生命現象(phénomènes de la vie organique)と動物性生命現象(phénomènes de la vie animale)とに区分し、前者を支配する神経系統を臓器性神経系と名付けた。臓器性生命現象は、意思や意識を伴わず、大脳の支配から比較的独立していることから、一般に植物性機能と呼ばれた。この神経系統に対して「植物性神経系」という表現を用いたのは、ビシャの門弟のドイツ人ライル(1759-1813)であり、これがドイツの学者たちに採用されることになった。今日では、しかし「植物性神経系」という表現は「自律神経系」という術語に取って代わられている。植物状態という用語は、この植物性神経系(自律神経系)の働きが比較的保たれていることにも由来するとされる。日本でこの言葉が一般的に使われ始めたのは1960年代からである。脳神経外科医の一部が隠語的に使っているのを、マスコミがとりあげたことから、逆に医師の世界にも広まったらしい。他方、そもそもマスコミによる造語だと主張する人もいる。
 しかし、そもそも動物の諸機能を植物性と動物性に二分すること自体に恣意性があり、かつ自律神経系と植物の生態とを類比的に捉えることにもなんら学的根拠はない。それゆえ、1972年に提案された遷延性植物状態(persistent vegetative state)に代わる術語として、より包括的な概念である「最小意識状態(minimally conscious state)」が提案されたのが2002年、さらに2010年には、ヨーロッパの意識障害に関する専門委員会(European Task Force on Disorders of Consciousness)が、反応はないが覚醒していることを意味する unresposive wakefulness syndrome という用語を遷延性植物状態に代わる用語として提案した。
 現在、日本の医療現場では、「植物」という言葉を避け、「遷延性あるいは慢性意識障害患者」と呼ばれるようになっているとのことである。ただ、これに異論を唱える人たちもいる。この名によって呼ばれている患者たちは、意識に障害があるのではなく、意識活動を表出するための運動・神経機能に障害があると考えた方が妥当であるとそれらの人たちは主張している。
 これらの問題とは別に、ここで私が問題にしたいのは、そもそも植物についての明確な定義があるのだろうか、ということである。もちろん植物学においてはそれなりの定義があるにしても、植物固有の存在様態についての哲学的考察はきわめて乏しい。
 その理由の一つは、生態系全体の中での植物の位置づけが、二十世紀までは多分に人間中心的世界観、あるいは偽装された人間中心主義に過ぎない動物中心的世界観の中で行われて来たために不当に低くかったことである。それゆえ、植物はまともな哲学的考察の対象とはなり得なかった。
 植物を不当に軽視した生態学的世界像という支配的傾向に変化が見られるのは二十世紀末である。この変化は、地球規模での生態系破壊が深刻化する中で、植物生態学者たちによる植物の観点から人間世界・動物世界を見直す動きとして表現され始めた。この動きが今世紀に入って哲学者たちによって本格化する。この本格化を、二十世紀の哲学の言語論的転回になぞらえて、「植物論的転回」と呼ぶ人たちさえいるが、その当否は後に問題にすることにしよう。
 明日以降の記事では、このテーマに関して私がこれまでに集めたいくつかの文献を紹介しつつ、植物の観点から世界を見直すとき、どのような世界像が立ち現れてくるかを見ていこう。