内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

他性を宿命的に内在化させている言語としての日本語

2020-12-13 00:00:00 | 日本語について

 この研究の結果から日本語の特異性としてどのようなことが言えるか。昨日の記事で話題にした修士論文を書いた学生に、論文作成中、何度かこう問うた。結局、この問い対する十分な回答は得られないままに終わってしまった。言語現象の表層の分析にとどまったままだった。
 私の考えでは、しかし、ライトノベルに典型的に見られるような一見自由な当て字や振り仮名(というよりも本文脇の並行表記)は、日本語にとっての漢字の本来的な他性・異質性・自律性に由来する。外来の漢字を使わずにはまともな文章を構成することがほぼ不可能なまでに他性を内在化させた言語が日本語なのだ。漢字は、それ自体で、日本語文法と日本語としての常用の読みとは独立に、意味することができてしまう。だからこそ、日本語として慣用的に充てられている通常の読みとは異なる読み(というよりも付加的なシニフィアン)をその脇に並行表記することができるのだ。
 一見して自由の行使に見える振り仮名的並行表記は、日本語の書き言葉は漢字なしには機能不全に陥るという不可避的な拘束が可能にしている結果の一つに過ぎない。振り仮名表記の自由性は、日本語表記の豊かな表現的可能性の現われというよりも、他性としての漢字の拘束から逃れることはできないという日本語の宿命の顕然化なのだ。あるいは、通常の日本語表記が抑圧している他性が並行表記によってその抑圧から解放されていると言ってもよい。しかも、そのことにおそらくライトノベルの作家たちは気づいておらず、標準的な表記から自由になって並行表記を行っているつもりだろう。
 こんなことを論文審査のための講評を書きながら考えているとき、前田英樹が『愛読の方法』の中で次のように述べている箇所に行き当たり、私はとても共感した。

 母語とは根本から異なる言語の文字表記を、母語の表記に用いた日本の古代人は、一方では、公式の文書を漢文で書き、これを訓読した。しかし、他方では、決して漢文に置き換えるわけにはいかない歌や物語や神さまに述べる言葉を、独自の漢字表記を発明して書いた。なぜ、置き換えるわけにはいかなかったのか。訓読される漠文という公式言語に移せば死んでしまう生の曲率が、言葉の運動それ自体としてあったからである。国学者たちの仕事を、深く、止むことなく導いたのは、この直観だった。
 この直観は、彼らを実に遠いところまで、あまりにも遠いところまで導いていったと言える。漢字、漢文という、外国の文字で書かれるものへの抵抗は、やがて文字がもたらす語の諸区分すべてへの疑い、批判、あるいは否定に育った。言葉は、ばらばらに分解できる語の集まりとして意味を構成するのではない。言葉は、生の曲率を顕わしながら繰り延べられていくひとつの運動である。そこに生じては流れ去っていく独特の姿は、律動は、文字にはない。といって、あれこれの声に宿るのでもない。それらのものすべての向う側に、言葉という魂の運動それ自体として在るのだ。万葉歌人は、それをこそ「言霊」と呼んだのではないか。