内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

慰めと救いとしての哲学と文学と歴史 ― あふいきとひ記

2020-12-08 23:59:59 | 雑感

 多分、今月十八日金曜日までは、毎日記事を書いたという事実を残すためだけの、いつにもまして内容空疎な短い記事になります。
 ここのところの忙しさは尋常ではありません。仕事がありすぎて時間が足りない、というのとは、ちょっと違います。時間的には、まったく余裕がないわけではないのです。そうではなくて、「忙」という漢字が示している通りの意味で、「忙しい」のです。つまり、心を亡くしています。
 こんなことを続けていたら、ただ心がすり減っていくだけで、後には何も残らない、という虚しさに、心がどんどん蝕まれているのがわかります。かといって、仕事は一応しているし(でも、それも怪しくなってきたなあ)、日常の行動に異常性が見られるわけでもありません(って、本人が言っても、説得力ないか)。病院に行ったって、「異常なし」と診断されるか、適当な病名を付けられて、心の状態をさらに悪化させることにしかならない薬を処方されるだけです。
 日々、「どうしてこうなの」と愚痴りたいことがあります。でも、そんなことしても、すればするほど、気持ちが腐るばかりであることがわかっているから、したくありません。それにしても、なんなの、これ、と思うことが毎日あります。誰かが悪い、という話ではありません。そういう話だったら、ここまで精神が疲弊してはいないと思います。
 精神的にカツカツのこんな状態にあって、哲学と文学と歴史が慰めと救いになっているのは幸いです。来週末までは、ほとんどまともな読書はできず、ましてや集中して何かを考えるということも無理なのですが、机上にはいつも数冊のテキストが置かれ、あるいは電子書籍の頁が開かれたままになっていて、あたかもコーヒーブレイクのように、ときどき仕事の手を休めては、それらのテキストのいずれかの数頁を読んで、元気を少し取り戻しています。
 ここ数日机上に置かれているのは、ショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』の仏訳(PUF, 2014)、Parerga und Paralipomena の今年刊行された仏訳(Robert Laffont, « Bouquins ». 二十世紀の初めにバラバラに刊行された訳を一巻に集成したもの)、 ベルクソンの Œuvres (PUF, 1959)、 L’énergie spirituelleLa pensée et le mouvent (PUF, 2009)です。これらの支えに助けられながら、なんとか来週金曜日まで持ち堪えたいと思います。