地獄の思想が日本に姿を現すのは仏教伝来以後であることは確かだが、いわゆる仏教公伝と同時に受け入れられたわけでもないし、公伝以前に帰化人を通じて伝えられた仏教にすでに六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)思想の片鱗があったかもしれないから、日本における地獄の思想のはじまりを特定することは難しい。
それでも確かなことは、死後の世界を黄泉としてきた古代日本人にとって、地獄を最下層とする六道思想は、まったく異質な「新しい」世界観であったことである。地下にあるとされる黄泉の国は、ものを生み出す大地の女性原理に属しており、仏教の地獄や浄土とは大きく異なる世界であった。
人間は死ぬと、土葬の場合その死体は地に埋められる。地下に死者の世界があるとする神話的思考が生じるのは、もとよりこのことにもとづく。古墳に葬る場合も例外ではない。しかしこの地または大地つまり earth には、ひとの命を育み養うさまざまな食物を生み出す力、つまり生産力が蔵されており、豊穣という恵みをもたらしてくれる。《母なる大地》と呼ばれるのも、大地が人間の生にとって根源的なものであったことを示す。(西郷信綱『古代人と死』「はしがき」より)
黄泉の国、つまり死者たちの棲む世界がどこにあると古代人たちによって信じられていたか。西郷は『古代人と死』のなかで結論的にこう述べている。
それはヤマトから西方にあたるイヅモ世界を暗い死者の国に見立てて、その国との「堺」の山にイザナミを葬ったという意に解していいはずである。人びとの生活次元に戻して考えるなら、耕作地の向こうにひろがる野や原、あるいはそれにつづく山地などがさしあたり死霊の世界ということになろう。(「黄泉の国・根の国」)
神話が生きられる世界の共同的了解の総合形態であるとすれば、そしてそのなかで死者たちの国がこの引用でのように位置づけられていたとすれば、古代人たちは、西方の山の向こうの死霊の世界とともに生きていたということになる。
このような黄泉の国と根の国とはどのような関係にあるのか。『古事記』のなかでオホムナジがスサノオの娘スセリビメと根の国で婚したことに言及したあと、西郷はこう述べている。
このような若き女性が棲んでいること、しかもそれが早くオホムナジの妻になること、ここに根の国の話の見逃せぬ一つの特質がある。私は大地はおのれのなかに死者を受容するとともに、ものを生み出す女性原理を秘めているとしたが、かくてこうした機能が古事記の根の国ではあざなわれるごとく語られているといえる。(「黄泉の国・根の国」)
根の国についてこのように述べたあと、西郷は沖縄のニライ・カナイを想起する。その所在は海のかなたの国だったり、海底だったりするが、そこから神々が人間界を訪れて祝福を与えてくれるとされる。五穀の種も元来そこからもたらされたという。そして、「一門の宗家である根屋がニーヤ、そこから出た神女(根神)がニーガンと呼ばれるのでもわかるように、ニライは紛れもなく根の国と見合う」と西郷は言うのだが、ここは正直私にはよくわからない。