内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内なる他性の声なき声を聴き取る仕事

2024-07-23 23:59:59 | 哲学

 先週19日の北大での講演の内容は来週の東洋大大学院での集中講義の内容と部分的に重なるので、その準備作業として、もう一度論点を整理しておきたい。
 私が植物哲学に関心をもつようになったきっかけは、植物そのものに対する関心ではなく、西村ユミ氏の『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫、2018年)を読んで「植物状態」と呼ばれる患者さんたちとのコミュニケーションの可能性に関心をもったからである。
 植物状態とは、「一見、意識が清明であるように開眼するが、外的刺激に対する反応、あるいは認識などの精神活動が認められず、外界とのコミュニケーションを図ることができない状態を総称する」(17頁)。
 この「植物状態」という呼称は19世紀の生理学の区分に拠るが、その説明は同書240‐241頁の注14に譲る。植物状態の厳密な定義は難しく、いくつかの基準が専門家たちによって提案されているが、いずれの場合も、動物性生命現象はほぼすべて失われていながら植物性機能が比較的よく保持されている状態の意であるから、本来あるべき機能が欠けているという欠如態 privative として患者を捉えている点は共通している。
 しかし、この状態は、「正常な」ヒトの生の欠如態としてではなく、ヒトにおいて生の原初的な基層が露呈している状態として捉えることもできるのではないだろうか。脳の損傷により言語によるコミュニケーションが不可能になることによって、前/非言語的コミュニケーションの層がいわば剝き出しになっていると見ることができるのではないだろうか。
 そのような患者さんたちと日々向き合い看護を続ける看護師さんたちが証言する患者さんとのコミュニケーションの経験的「事実」は、たとえそれが科学的には実証はできなくても、私には単なる「思い込み」だとはとても思えない。
 看護師さんたちが証言する植物状態患者とのコミュニケーションの経験は、言語を失った患者さんたちの声なき声を、沈黙のなかにおいてこそ発されている患者さんの声を、「正常」な状態では言語がいわばその遮蔽幕となって聞こえない沈黙の声を、看護師さんたちは聴き取っているということを意味しているのではないだろうか。
 その経験において、ヒトのなかにあるヒトならぬものである他性が顕現している。そればかりか、その他性によってこそヒトは生かされているということに看護師さんたちは気づいている。
 この他性を「植物」と呼ぶのならば、それはあるべき何かが欠けている欠如態ではなく、それによって他のすべてが生かされている存在の基礎様態ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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