内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

真理探究の始源としての「安らぎなき心」

2024-12-23 07:18:13 | 哲学

 パスカルの『パンセ』に出てくる inquiétude は「不安」と訳される。例えば、断章19(セリエ版、ラフュマ版400、ブランシュヴィック版427)を見てみよう。

L’homme ne sait à quel rang se mettre. Il est visiblement égaré et tombé de son vrai lieu sans le pouvoir retrouver. Il le cherche partout avec inquiétude et sans succès dans des ténèbres impénétrables.

人間はどんな地位に自分を置いたらいいのかを知らない。彼らは明らかに道に迷っているのであり、自分の本来の場所から落ちたまま、それを再び見いだせないでいる。彼はそれを、見通すことのできない暗黒のなかで、不安にかられて、いたるところに求めているが、成功しない。(中公文庫、前田陽一訳)

 この断章中の訳語としての「不安」を別の日本語に置き換えるのは難しい。ただ、日本語の「不安」の通常の用例からの類推だけでは、パスカルにおける inquiétude の積極的意味は捉えがたい。
 「将来に対する不安」という表現は、将来についての見通しが立たず、あれこれと困難や障害が想像されて、気持ちが落ち着かない状態を意味していることが多い。なにかはっきりとした原因や理由があってあることが心配になるというよりも、むしろそれらがはっきりしないからこそ発生する不安定な心理状態が「不安」である。
 この状態が高じると、今やるべきことに集中できなくなる。つまり、現在の活動が阻害される。行動への意欲が削がれる。このような意味での「不安」に積極的な意味づけを与えることは難しい。
 不安に負けずに今できることに取り組むことができている場合であっても、それは、今できることに集中することによって不安を追い払おうとしているのであって、不安そのものが活動の原動力になっているわけではない。
 ところが、inquiétude は、探し求めているものがあるのだが、それがまだ見つかっておらず、心が満たされていないがゆえに、探し続けずにはいられないという、休むことなき(sans repos)精神の動的状態を意味することがある。
 この意味での inquiétude は、アウグスティヌスの『告白』にその淵源がある。 « fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum, donec requiescat in te. »(I, 1, 1「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」) 
 この意味での inquiétude を真理探究の始源とする哲学の系譜の起点がパスカルであるというのが Laurence Devillairs が Philosophie de Pascal. Le principe d’inquiétude, PUF, 2022 で主張しているテーゼである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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