昨日の記事で述べたように、『和泉式部集』の一例を除いて、中古の文学作品において「静心」は「なし」と結合してほぼ一語化している。『ジャパンナレッジ』で小学館の日本古典文学全集全文に検索をかけても同様な結果が得られる。昨日挙げた作品以外では『栄花物語』に29例あるのが目立つ。
語構成としては〈静心+なし〉と分解できるわけだが、「静心」が単独で名詞として用いられることがなく「静心なく」という副詞的用法が圧倒的に多く、体言を修飾する形容詞あるいはその述語としての用例が若干という言語的事実は何を意味しているのだろうか。
どの古語辞書の「しづごごろ」の項を見ても、「静かな心」「落ち着いた心」といった語釈を示すのみで、そのような心の実在は当然のことのようにみなされており、なぜ用法としては「なし」を伴う例が圧倒的多いのか、その理由についての説明がない。
人の心の安定した状態としての「静心」を示す例がない(和泉式部歌中の例「しづ心ある褻衣」は「家で落ち着いているときの平常着」の意で人の心の状態のことではない)からといって、「静かな心」「落ち着いた心」という意味での「静心」が現実に経験されることはなかったということにはもちろんならない。そのような平静な状態あるいは常態としての実定的な「静かな心」は、まさにそれが理由で文学作品において取り立てて表現する対象とはならなかったと一応は考えられる。
では、人の心の状態が平常とは異なる不安定な欠如態に一時的に置かれたときに、その状態で何かが行われる様が「静心なく」と表現されるだけのことなのだろうか。確かに、『源氏物語』や『栄花物語』ではそのような用例がほとんどである。
しかし、友則の「静心なく花の散るらむ」は、人の心のことではなく、散り急ぐ桜花の落花様態であり、「静心なく」は桜にとって常態である。
和泉式部の「物思へばしづ心なき世の中にのどかにも降る雨のうちかな」においては、心休まることのない人の世(特に男女の仲)とそれを包み込むように穏やかに降る雨(「降る」に「経る」を、「雨」に「天」を掛ける)とが対比されており、「静心なき」は世(特に男女の仲)の常である。
昨日も引用した紫式部の「かきくもり夕立つ波のあらければ浮きたる舟のしづ心なき」については、ルネ・シフェールがその『紫式部集』仏訳(Murasaki-shikibu, Poèmes, POF, 1986)の同歌の註で « Il s’agit de tout autre chose que d’une simple description de paysage, la barque secouée par la tempête étant une image de la précarité du destin de l’homme en ce bas-monde. » (p. 24) と指摘しているように、これは単なる叙景歌ではなく、この俗世での人間の運命の不安定さを詠んだ一首である。
これらの歌が表現している〈静心無〉は、何らかの理由で一時的に静心を失った一過性の心理的欠如態ではなく、モノの不可避的な有限で儚い存在様態、あるいは、静心を求めつつもそれを得られずにこの世を生き続けなければならない人間の実存的様態である。
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