学部三年生になると、日本語学習に熱心で優秀な学生たちは、私に日本語で話しかけてくるし、メールを送ってくる。それは日本語学習者として望ましい姿勢だ。それに対して私ももちろん日本語で受け答えする。
たとえ彼らの文言に文法的には少なからぬ誤りがあっても、ほとんどの場合、意は通じる。日本語学習者と教師という関係の中では、日本人同士であれば多かれ少なかれ無礼な物言いも許容される。それらの物言いに対してあまりにも厳しく対処してしまうと、彼らの学習意欲を削いでしまいかねない。
だから、原則として、学生たちの日本語のミスについて、私はとやかく言わない。彼らができるだけストレスを感じないで話せるように配慮する。たとえ彼らの言いたいことがすぐにはよくわからないときでも、会話の持続性を重視し、その持続の中で、同じ話題に関して表現を変えながら、彼らが言いたいことを探り当てるようにする。会話がちゃんと成立しているという成功体験が彼らの学習意欲を高めるからである。
間違いを減らすという意思ではなく、言えることを増そうという姿勢を彼らにはもってほしい。一言で言えば、そして嫌いな表現をあえて使えば、プラス思考あるいはポジティブ・シンキングということである。
ところが、フランス人学生たちの中には、特に成績優秀な学生たちの中には、間違いを恐れてつい口籠ってしまい、積極的に話せない学生が少なくない。ちょっと皮肉な言い方をすれば、彼らは、いわゆる日本人的な姿勢を身に着けてしまった結果、あるいはもともとそれと親和性があったために、日本語表現力の向上において後れを取ってしまう。裏返して言えば、間違いを恐れず、場合によっては、場の中で浮いてしまう或いは相手にドン引きされてしまうことを恐れずに、とにかく積極的に話すという「非日本人的」姿勢が日本語の上達にはより好適なのだ。
しかし、今日、ある三年生からメールをもらって、ちょっと考え込んでしまった。その学生は一年次から常に成績は断然トップ、人柄も申し分がない。二年生の終わり頃から日本語のメールを私に送ってくるようになった。意を通ずるのに十分な文章である。ところが、彼女が一生懸命使おうとしている敬語はほぼ全部間違っているのである。
以前は、返事の中で「教育的配慮」からその間違いをすべて訂正していた。それに対して彼女は感謝の返事をくれる。だが、今日もらった短いメールを読んで、その中にもやはり敬語の間違いがあったのだが、それを指摘せずに、用件についてのみ返事を送った。
なぜそうしたか。問題は、単に間違いを訂正し、敬語を身につけさせるというところにはないのではないかと思ったからである。敬語システムという膨大な負担を日本語学習者たちに課し続けるよりも、日本語自身が変わるべきではないのかと思うのである。言い換えれば、日本語自体が「国際化」すべきなのではないかと思うのである。
敬語システムを目の敵にしているわけではない。私自身は、かなりちゃんとそれを運用できているつもりであるし、その適切な運用が人間関係を円滑にすることも認める。しかし、日本人にとっても必ずしも容易ではない敬語の適切な運用を、外国語として日本語を学習する人たちに対して、「日本語ってこういうものだから」という理由だけで強制していいものだろうか。
「タメ口」をデフォルトとして推奨したいのではない。「他者」に対してより開かれた言語として日本語が創造的に進化することを願っているのである。思いっきり大風呂敷を広げて啖呵を切れば、このブログはその「創造的進化」に貢献することをその目的の一つとしている。
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