どんなに注意して何回読み直しても、自分の文章だと誤りを見落としてしまうことがある。それが一冊の本になるような長い文章であれば尚のことである。だから校正には他人の目が入ったほうがよい。人から指摘されてみれば、なんでこんな初歩的な誤字や脱字に気づかなかったのだろうと唖然としてしまうこともある。
自分の文章を少し間を置いて読み直してみて気づく誤りもある。書いた直後は内容に引きずられて、見逃がされていた誤りが間を置いたことによって目に見えるようになる。このブログでもよくある。恥ずかしい間違いが後日もう数え切れないほど見つかって、赤面したり、がっかりしたり、自分に腹が立ったりする。
さらに始末が悪いのは、誤用を正しいと思い込んでいる場合で、これでは何度見直しても誤りには気づけない。辞書を読む効用の一つは、このような思い込みに気づかせてくれることである。ある言葉の意味を調べるために辞書を引くときには気づきにくいが、特にあてもなく並んでいる項目をウインドーショッピングのように「ひやかし」ているとき、自分の誤用に気づかされることがある。
誤用ではないが、ある言葉づかいが相手に不快な思いをさせていたことに後日気づく、あるいは人から気づかされることもある。場合によっては愕然とする。
『舟を編む ~私、辞書を作ります~』の第一話に、主人公の岸辺みどりが、それまで自分が無意識に連発していた副助詞「なんて」がもっている意味を辞書で調べて、知らずに相手を傷つけていたことに気づき、思わず涙するシーンがある。「なんて」は「軽く見る気持ちをあらわす」(『新選国語辞典』第十版、二〇二二年)ことがあり、彼女の使い方はまさにそれだったのだ。その後、彼女はつい「なんて」を使いそうになると、別の言葉に慌てて言い換えるようになる。
自分の口癖になっている言葉を辞書で引いてみると、思いもかけなかった自分のポートレートの断片が見つかるかも知れない。その発見が自分が変わっていくきっかけになるかも知れない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます