内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休みのオンリー・サイテーション・モード(1)「死んでいた自然が、生き返ったのである」― ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』より

2024-07-09 16:29:20 | 読游摘録

 ヴァカンスのはじまりのこの時期、例年ならほっと一息つけて解放感も味わえるのですが、この夏はそうはいかなくなってしまいました。公式には今月末で終わるせっかくの研究休暇も十分に自分の研究のために活用できません。というのも、学科としての9月からの新年度の準備がまだ終わっておらず、私も修士課程の責任者という重責を引き受けざるを得ず、その引き継ぎと新学年の準備があるだけでなく、出向で不在の同僚の代わりに引き受ける演習の準備も加わって、ヴァカンスどころではないのです。
 でも、そんな話をしてもつまりません。と言って、それなりに頭を使った文章を綴る暇も当分ありません。そこで、今日からは、最近心に触れた文章をコメントなしで紹介するだけです。そう、以前にもあった、オンリー・サイテーション・モード、です。
 一昨日の記事で引用したホイジンガの『中世の秋』からの一節の直後に、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』からの引用があります。その引用の前後も含めて、英語原文と岩波文庫版の桝田啓三郎訳を掲げましょう。

Such accounts as this shade away into others where the belief is, not that particular events are tempered more towardly to us by a superintending providence, as a reward for our reliance, but that by cultivating the continuous sense of our connection with the power that made things as they are, we are tempered more towardly for their reception. The outward face of nature need not alter, but the expressions of meaning in it alter. It was dead and is alive again. It is like the difference between looking on a person without love, or upon the same person with love. In the latter case intercourse springs into new vitality. So when one's affections keep in touch with the divinity of the world's authorship, fear and egotism fall away; and in the equanimity that follows, one finds in the hours, as they succeed each other, a series of purely benignant opportunities. It is as if all doors were opened, and all paths freshly smoothed. We meet a new world when we meet the old world in the spirit which this kind of prayer infuses.
                                          Lecture XIX, Third degree.

このような考え方は、次第に変化していって、次のような信仰になる。すなわち、個々の出来事が、私たちの信頼に対する報酬として、私たちの都合のよいように摂理の導きによって調節されているというのではなく、私たちが万物を創造した力と繋がっているという感じを絶えず培うことによって、だんだんと私たちのほうが個々の出来事の受け容れに都合のよいように調節されてくるという信仰である。自然の外貌が変わる必要はない、自然のなかにある意味の表現が変わるのである。死んでいた自然が、生き返ったのである。それはちょうど、ある人間を見るのに、愛しないで見るか、それともその同じ人を愛をもって見るか、の違いのようなものである。愛をもって見る場合には、交わりは新しい活気と帯びてくる。同じように、人間の感情が世界の創造者である神と接触する場合には、恐怖と我欲は消え去る。そしてその結果として生ずる平静な心で眺められるとき、あとからあとからと続く一時間一時間が、一連の祝福ゆたかな機会となる。それはあたかも、すべての扉が開かれているかのようであり、すべての障害が取り除かれたかのようである。このような種類の祈りに浸透された精神で古い世界に対するとき、私たちは新しい世界に対しているのである。(下巻、321‐322頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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