内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

画面の「向こう側」に熱量が伝わることを願いながら

2024-10-09 05:55:07 | 講義の余白から

 昨日火曜日の朝、例外的に遠隔授業を一コマ行った。学部三年の「日本思想史」である。なぜかというと、通常の時間割ではこの授業は前日月曜日8時30分から10時までなのだが、その授業直前になって急遽休講にせざるを得なかったからである。
 月曜日の朝、授業が行われる教室がある建物の前に自転車で到着すると、いつになく数多くの学生たちが建物前の広場で立ち話している。私の授業を受講している学生たちも一角に集まっている。警官も数人待機している。建物の正面玄関に近づいて理由がわかった。一部学生たちによって建物が封鎖されていたのである。
 この建物、学生たちによる何らかの抗議行動があるとき、キャンパス内でまず封鎖されるという「伝統」がある。大規模な抗議行動のときには他の建物も封鎖されることもあるが、今回の封鎖理由は、ガザ地区へのイスラエル攻撃開始からちょうど一年経過し、いまだに終息どころか停戦の見通しさえ立たず、無差別的な爆撃によって市民に多くの犠牲者が出続けていることに対する抗議表明のためで、大学そのものが直接関与する問題に対する抗議ではなく、いわばシンボリックな行動である。封鎖のために正面玄関前に置かれていた大型のプラカードには「いつまで続くのか大量虐殺(génocide)!?」と大書してあった。
 このような場合、教員と職員は大学発行のIDカードがあれば建物内に入れるが、万が一の危険を事前に回避するため、学生たちの入館は大学規則で禁止されており、封鎖中は予定されていたすべての授業は強制休講になる。私の授業の学生たちには、「休講だね。遠隔に切り替えるつもりだが、日時は後で連絡する」と言い残して自宅に戻る。
 すぐにアンケートアプリを使って学生たちにとって都合の良い時間帯を調査したが、どの時間帯にしても半数近くは他の履修科目と重なり出席できないという結果。上掲の時間帯に遠隔授業を行い、それに出席できない学生たちのために録画もすることにした。
 遠隔およびその録画の手順にはコロナ禍中にすっかり慣れているから準備に手間はかからない。今回の授業のために準備したパワーポイントを共有しながら、きっちり一時間半の授業を行う。
 テーマは先週からの続きで、「「見ゆ」から「思ふ」へ 〈眼〉から〈心〉へ ―万葉集から古今和歌集への世界認識の転回点―」。
 授業が佳境に入ったところで、小西甚一の『日本文学史』(1953年)の次の一文の意味するところを解説する。

赤人における景情融合は、叙景の底に心情が沈みきった表現であり、その融合は本来的のものであった。

 実例として次の一首を挙げる。私にとって四十数年来の愛唱歌の一つである。

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (巻第六・九一九)

 この一首については、このブログを始めてまだ二ヶ月ほどの2013年8月6日の記事で今読むとちょっと気恥ずかしくなるような熱量を込めてその鑑賞を綴っている。今回の授業でも、PCの画面に大きく表示されたこの歌を眼前にしながら、その「向こう側」の学生たちに向かって熱く語ってしまいました。その熱量が少しでも彼らに伝わることを願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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