生理学および心理の分野で「体感:快感,不快感を基本とする,漠然とした全身の感覚」を指す術語としてのフランス語 cénesthésie は十九世紀前半に登場する。しかし、それ以前にメーヌ・ド・ビランが cœnesthèse という語を用いて、快苦を感じる原初的な身体の全体感覚を主題化している。
ビランはこの概念の着想をドイツの生理学者・解剖学者・精神科医のヨハン・クリスチャン・ライル(1759‐1813)が提案した coenaesthesis という学術ラテン語から得ている(Nouvelles considérations sur les rapports du physique et du moral de l’homme, manuscrit 1812, édité par Bernard Baertchi, in François Azouvi, Maine de Biran, Œuvres, tome IV, p. 125)。
ビランは実質的に cénesthésie をどのように捉えたか。Georges Vigarelle, Le sentiment de soi. Histoire de la Perception du corps XVIe-XXe siècle, Editions du Seuil, coll. « Points Histoire », 2016 (première édition, 2014) を参照しながら要点を私なりにまとめれば以下のようになる。
ビランはライルのいう身体の全体感を « sentiment d’ensemble, mode composé de toutes les impressions vitales inhérentes à chaque partie de l’organisation » (Nouvelles considérations sur les rapports…, op. cit., p. 125) だと規定している。それは、身体という一つの有機体の各部分に本来的に内属する生的印象すべてからなる様態である。
この「全体感」こそ、生きている〈からだ〉のもっとも原初的な次元の直接的な把握であるとすることで、身体についての新たな探究の次元が開かれる。
そこでの探究の対象になるのは、契機的に連続する諸感覚の束ではないし、原初の努力そのものでもなく、「全体」として感じられている〈からだ〉であり、それは、漠然としており明瞭に分節されていないが、諸感覚の混沌とした状態なのではなく、むしろそこからそれらの分節化された諸感覚が可能になるより原初的な身体の次元である。
ライルは胎児においてすでにこの全体感は発生しているとする。
« Sans elle, [sans ce sens vital intérieur, tout intime,] nous n’aurions aucune idée de l’application [ni de l’intensité variable] de nos forces physiques, dans la respiration, l’excrétion, la contraction musculaire, etc. » (Maine de Biran, op. cit., p. 126)
この全体感は生理的でもあり心理的でもある。というよりも、そのような分岐に先立つ感覚であり、この身体の全体感の連続性がなんらかの仕方で断ち切られると自己の連続性が損なわれる。
つまり、自己感はこの身体の全体感に基礎づけられている。