いつの時代にもどんな社会でも、いや、そんな断りをわざわざ入れなくても、端的に言って、人は、生きているかぎり、苦しむ。苦しむことからまったく無縁な人間がいたら、それは仙人か人でなしであろう。苦しむことは人間にとって普遍的な経験だ。箴言風に言い換えれば、人間は苦しむ動物だ。他の動物は苦しまない、と言いたいのではない。ただ、動物の話は措く。
ところが、苦しむことは人間にとって普遍的な経験であるにもかかわらず、何をどう苦しむかはさまざまな要因によって変わる。思いつくままにそれらの要因を挙げれば、その人が生きる時代・社会・環境、その人の性格・年齢・性別・身体的条件・人間関係・社会的身分、その人が信仰する宗教、身についている信念・道徳観・倫理観等々。もちろん外にもあるだろう。つまり、苦しむという普遍的な経験を一般的に語ることは難しい。
苦しむという経験を普遍的な問題として考えようとするときのもう一つの困難は、苦しみと痛みとの区別に関わる。例えば、怪我をして傷口が痛む。しかし、その怪我をした人が、傷はいずれ癒えるからと、傷口には痛みを感じつつも、その傷のことを苦しまないということがある。逆の例は、傷としてはかすり傷程度で痛みもなく、一週間もすれば傷跡も消えるとわかっていながら、その傷の原因によって苦しめられるという場合である。病気の場合でも同様の例をいくらでも挙げることができるだろう。共通する問題は、苦しみと痛みは無関係ではないが、両者の間には関数関係も因果関係も成り立たないということだ。
精神的苦痛という言葉は、一般言語としてだけでなく、法律用語としても使用される。この苦痛はどうやって計量するのか。隣人の絶え間ない騒音によって被る苦痛と詐欺にあって全財産を失ったときの苦痛とを比べれば、後者の方が大きいとするのが一般的な判断かも知れないが、それぞれの当事者の感じ方に左右されることだから、一般的尺度を当てはめて苦痛の多寡を推し量ることにはそもそも無理がある。
そのような苦痛がまったくなくても、人は苦しむことがある。その苦しみの原因は、自己の身体あるいは能力に関するコンプレックス、家族問題、人間関係等々、多様である。あるいは、漠然とした人間不信や将来に対する不安などで苦しむこともある。その苦しみが度を超すと、何らかの精神疾患とみなされることもある。
いずれの場合も、苦しみも痛みも解消されるべき状態だという暗黙の前提がある。苦しみも痛みもないに越したことはない。普通、皆、そう思う。苦しみや痛みについてただ語ることは、だから、無益に思える。
苦痛に道徳的有用性あるいは価値を認めるいわゆる苦痛主義(dolorisme)は、ストア主義の誤った解釈、キリスト教世界の異端、あるいは二十世紀にはプラグマティズムの倒錯的変種として、思想史的・精神史的考察の対象としては興味深いが、それもさしあたり措く。
明日以降、少なくとも一ヶ月間、蝸牛的速度で展開されるほかないであろう哲学的考察の起点となる二つの問いをごく一般的な仕方で定式化して今日の記事を締め括ろう。
苦しみと痛みとはどのように区別されるべきか。
苦しむことそれ自体に価値はあるか。
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