内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「菫」を巡る言葉の散歩道

2023-04-10 23:59:59 | 詩歌逍遥

 塚本邦雄の『百花遊歴』(講談社文芸文庫、2018年。初版、文藝春秋社、1979年)の「菫」の章を読んでいると、人家の傍や野道にざらに生えているはずの立壺菫や、それよりももっと一般的であるとされている標準型の「菫」さえ、今日ではなかなか出会えないとある。そもそも「人家」や「野道」さえ少なくなってきているのだから、そこに咲いているはずの菫にお目にかかれなくなっているのも致し方ない。
 「人家」とは、ただ人の住む家を指すのではなく、「〔無人の野山・原始林などに対比して〕人が住んでいる(いた)家」(『新明解国語辞典』第八版)を指す。『新漢語林』第二版(2011年)には、唐の詩人杜牧の「山行詩」から次の一節が引かれている。「遠上寒山石経斜 白雲生処有人家」(とおくカンザンにのぼれば、セキケイななめなり。ハクウンショウずるところ、ジンカあり)。「遠く郊外まででかけ、さびしい山を上っていくと石の転がる小道が斜めに続き、白い雲がわき出ているあたりにも、人の住む家があった。」
 「人家」は、だから、街中に密集する住宅を指すことは稀であり、人の住まぬ領域との対比において、人が生活している場所としての家を指し、無人の領域と人里との境界領域にある家を指すことがしばしばある。例えば、「人家もまばらな」と言えば、人里離れた土地に点在する家を指す。
 そんな人家の傍にひっそりと咲いている菫に出会ったことは私にはもちろんなく、ストラスブール大学付属植物園でお目にかかったことがあるだけである。それでも好きな花であることにかわりはない。
 日本の詩歌の中で「菫」を詠んだ歌として著名なのは山部赤人の「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」(巻八・一四二四)だ。しかし、この歌は菫そのものを讃えているわけではない。もちろん詠われた景色の構成要素として菫も欠かせないにしても、赤人がなつかしんでいるのは野辺の美しさである。当時、菫は薬草として用いられていたというから、菫摘みとは薬草狩りであったと考えるのが妥当なようだ。
 この歌、授業で「なつかし」の原義を説明するときに必ず引く。中世以降に現れ、今日ではそれがこの言葉の一般的になっている「(昔や亡き人を)懐かしむ」という意味は万葉集の時代にはなかったことに注意を促し、「なつかし」の原義は、「いつまでもそこにとどまりたい」「いつまでもいっしょにいたい」という気持ちであることを強調する。だから、古語「なつかし」は「ノスタルジー」とは無縁である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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