内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

fragile と vulnérableの用例採集(2)― 心の徳性としての「壊れやすさ」と外から到来するものへの心の開けとしての「傷つきやすさ」

2024-11-16 07:42:38 | 言葉の散歩道

 フランス語で文章を書くとき、同一段落内あるいは近接した箇所で同じ名詞・動詞・形容詞・副詞をできるだけ繰り返さなにようにするという文章作法の原則がある。この原則は小学生の頃から叩き込まれるから、学生たちもこれを守ろうとする。この原則に忠実であろうとすると、それ相当の語彙力が求められる。それゆえ類義語辞典も多数あり、それらは読んでいるだけでも楽しい。
 日本学科の学生たちの中にはこの原則を日本語の文章にまで持ち込もうとする者がいる。しかし、この原則にあまりこだわると、日本語の場合、かえって議論が曖昧になったり、ときには衒学的に見えたりする。だから、学生たちには、是が非でも同義語あるいは類義語による言い換えを試みるよりも、同じ単語を繰り返すことで保証される論理的明晰性を優先するように指導する。
 他方、厳密に言えば、フランス語でもまったくの同義語として扱える二語は存在しない。だから、二つの単語が同義に使われているかどうかは文脈に応じて判断する必要がある。言い換えれば、文脈が異なれば、あるいは書き手が異なれば、別の場所では同義語扱いだった二つの単語が厳密に区別されて使われることもある。それゆえ、文脈によって、両者の違いを探っても無益な場合もあり、両者の区別を曖昧なままにしては書き手の言いたいことがわからなくなる場合もある。
 ここのところ拙ブログで話題にしている fragile(以下 f と略し、fragilité は F とする) と vulnérable (以下 v と略し、vulnérabilité は V とする)は、そのような判断が求められる典型例の一つである。例えば、次の文章を見てみよう。

 Dans quelle mesure Nussbaum est-elle parvenue à tenir ensemble autonomie et vulnérabilité ? 
 Il faut d’abord distinguer la bonne vulnérabilité de la mauvaise. La mauvaise, c’est la fragilité de l’eudaimonia humaine, le fait qu’elle soit soumise aux aléas de la fortune – qu’il s’agisse de notre moralité ou plus généralement de l’épanouissement de nos bonnes « capacités ». Cette vulnérabilité doit être réduite autant que possible, par l’action politique notamment. La bonne vulnérabilité, c’est la sensibilité-réactivité (responsiveness) qui nous permet d’agir de manière souple et ouverte.

 この文章は、Pierre Goldstein, Vulnérabilité et autonomie dans la pensée de Martha C. Nussbaum, PUF, 2011 の結論部の冒頭である。見ての通り、V を自律(autonomie)との関係で積極的に位置づけるために、良い V と悪い V とを区別している。悪い V は人間の幸福の F と同定されている。人間の幸福(eudaimonia)は偶然に左右される点において壊れやすいということである。この悪い V は特に政治的活動によって最小化されなくてはならないとされる。他方、良い V とは、私たちが外から到来するものに対して開かれており、それに対して柔軟に対応できる受容力を意味する。
 この区別はこの語の一般的な用法としては認め難いが、V が孕んでいる両義性を顕在化させている点において興味深い。他方、同書のなかには F を心の vertu (徳性)と見なしている箇所もあり、F に対しても両義的な考察が行われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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