ジャン=ルイ・クレティアンは自らの哲学的企図全体の導きの糸は une phénoménologie de la parole であるという。これを「言葉の現象学」と訳してしまうとクレティアンの意図が誤解されてしまうかも知れない。クレティアンが探究してきたのは、言語を対象とした現象学的研究ではないからである。私としては、そう訳したからといってクレティアンの意図がより明瞭になるわけではないことは承知のうえで、あえて「言なりの現象学」と訳したい。この「言なり」には「事なり」と「異なり」というもう二つの意味が込めてられている。あるいは、言語活動と区別して「コトバ」を世界の根源的分節化(作用)とする井筒俊彦に倣って、「コトバの現象学」と訳したほうがよいかもしれない。
余談だが、先週の日本思想史の授業で、言・事・異という三つの「こと」成りの現象としての不可分性に私自身の哲学的方法論の基礎があるという話をした。つまり、日本学科の学生たちに哲学講義をするという暴挙に出たわけである。たちどころに抗議の声があがるかと思いきや、まことに意外なことに、少なからぬ学生が強い関心を示し、必死にノートを取っていた。ノートもなしに早口で話していると、「先生、いまのところもう一度お願いします」と頼まれ、「いや、まったく同じことはもう繰り返せないよ。ちょっと待って」と少し考えて再定式化し、今度は学生たちが書き取れるようにゆっくりと説明した。とはいえ、いくら彼らが関心を持ってくれたとしても、学期末試験の際、「三つの「ことなり」の区別と関係について説明せよ」などという出題は厳に慎むつもりである。
さて、クレティアンである。彼は「言なり/コトバの現象学」について、今年出版されたクレティアン記念論文集 Jean-Louis Chrétien et la philosophie (PUF, sous la direction de Camille Riquier) に収録された2013年の対談のなかで次のように述べている(p. 114)。
Laissez-moi saisir l’occasion de votre question pour dire que le fil conducteur de l’ensemble de mes écrits a été une phénoménologie de la parole, comme le lieu où tout sens vient au jour et se recueille. Cette parole est celle de la finitude, puisque même la parole de Dieu ne nous vient que dans celle des hommes. Je ne tiens pas la réponse comme un acte de parole parmi d’autres, puisque toute parole est responsive, au monde, aux autres, à Dieu, et cela même dans le monologue, qui a toujours un fond de dialogue. Dans son incarnation en tant que voix, la parole met en œuvre de sens le corps entier. Le corps humain est le porte-parole, même quand nous nous taisons, ce qui est aussi un des modes essentiels de la parole. Si la parole est responsive, nous ne parlons que d’être affectés, ce qui ne signifie pas pour autant que tout sens soit affectif.
この発言にはクレティアンの哲学の根本的テーゼが凝縮されている。
言葉(コトバ)はすべての意味が生まれる場所であり、そこで意味は思量される。すべての言葉は、有限なるものの言葉であり、神の言葉でさえ、それが人の言葉を通じて私たちに到来するかぎりそうである。すべての言葉は、世界への、他なるものたちへの、神への「応え」であり、たとえ独白であっても、それは何ものかへの「応え」であり、したがってその底には「対話」がある。言葉が声となって受肉されるとき、言葉は身体全体を意味として働かせる。人間の身体は「言葉持ち」(porte-parole を原義に忠実に訳すための私の造語。かつて万葉集を勉強していたとき、伊藤博先生が額田王のことを天皇に代わって歌を詠む「御言持ち歌人」と呼んでいたことにヒントを得た)であり、それゆえ、私たちが沈黙することも言葉(コトバ)の本質的なあり方の一つである。言葉が「応え」であるということは、私たちは何ものかに「動かされて」はじめて話す(あるいは黙する)、ということである。しかし、そのことはすべての意味が情動から生まれるということを意味するのではない。
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