南方熊楠ほどその学問のスケールと関心の振幅が大きな日本人というのは日本史上一体何人数えることができるだろうか。古代まで遡ったとしても、私には空海くらいしか思い浮かばない。
熊楠は家の中で筆写という身体的行為を通じて書物の世界に没入していたかと思うと、次の瞬間には熊野の深い森の中でフィールワークに飛び回っている。唐澤太輔の言葉を借りれば、まさに「極端人」である。
しかし、一見極端なその振り幅にもかかわらず、熊楠の身体的・精神的活動には一つの共通点がある。それは対象への類まれな同化・没入力である。熊楠は、「対象に没入し、その内部から対象を直接観ていた」(唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』)。
これは西田幾多郎が言うところの「物となって見、物となって考え、物となって行う」(「ポイエシスとプラクシス」『西田幾多郎全集』第九巻、2004年、230頁)ことの具体的実践にほかならない。熊楠はまさに行為的直観の人である。
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「物となって見、物となって考え、物となって行う」