内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第二章(一)

2014-03-21 03:48:00 | 哲学

 今日から第二章に入る。この章のタイトルは、「西田哲学の方法論 ― 哲学の方法としての「自覚」と諸科学の方法としての「行為的直観」 ―」である。

 西田哲学を全体として方法的に首尾一貫した思考のシステムとして捉えることはきわめて困難であるように見える。それは、西田がつねにその思索を、その都度直観的に把握された一つの考えを起点として、そのいわば自発的な展開過程を追うことによって、発展深化させていくからである。西田の著作群のほとんどは、そのような思索過程の現場記録であり、それゆえ、それらの中にそれとして組織立った仕方で記述された彼自身の哲学的方法論を見出すことはできない。
 しかし、私たちはここで、マルシャル・ゲルーの、「おのおのの哲学は、明示的に、あるいは暗黙のうちに、その方法序説を内包している」(« Chaque philosophie comporte expressément ou implicitement son discours de la méthode. », 「コレージュ・ド・フランス開講講義」)というテーゼにあえて従って、西田のテクストを読んでみよう。
 実際、西田は、いくつかのテクストの中できわめて明示的に哲学の方法および諸科学とりわけ自然科学の方法についての彼の考えを表明している。特に、その最晩年に自らの哲学の方法について何度か述べていることは、それらが一つの方法論として十分に展開されているとは言い難いにしても、彼が到達した最終的立場から導き出された西田哲学の方法論の核心と見なすことができ、きわめて注目に値する。
 西田が哲学の方法をそれとして彼なりの仕方で厳密に規定しようとするのは、それをその他の科学の諸方法と区別し、それらとの関係を明確にしようという意図からであり、その試みは、西田哲学独自の二つの概念、最後期の西田哲学の二つの機軸概念となる「自覚」と「行為的直観」との区別と関係を基点としてなされている。
哲学の方法とその他の諸科学の方法とがこの二つの概念に基づいて西田によってどのように規定されているかを立ち入って検討する前に、その規定をまず簡略に図式的に示しておこう。
 まず、理由の順序に従うとき、哲学の方法は科学の諸方法に先立つ。というのは、前者は直接「創造的自己」に基づいているのに対して、後者は「ポイエーシス的自己」によって実行され、ポイエーシス的自己は創造的自己に基づいているからである。哲学の方法は厳密な意味での自覚によって遂行されるのに対して、科学の諸方法は行為的直観に基づいている。
 ところが、事実の順序に従うとき、自己はまず行為的直観の経験からポイエーシス的自己として自覚し、そしてこのポイエーシス的自己が今度は創造的自己として自覚し、これこそが厳密な意味での自覚ということになる。
 このように、「自覚」と「行為的直観」との区別と関係に基づいて、西田による哲学の方法の規定を科学の諸方法の規定との対比において見ることは、西田における哲学の方法をそれとしてあたうかぎり截然と取り出すことを可能にするばかりでなく、しばしばその区別と関係が充分に明確にされないままに論じられがちな「自覚」と「行為的直観」にそれぞれ厳密な規定を与えることを可能にする。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十七)

2014-03-20 00:00:00 | 哲学

3.3 歴史的生命の論理による世界像

 歴史的生命の世界とは創造的世界であり、その世界においては、その基礎或いは質料として予め要求されるいかなる実体や物質も前提することなしに、その世界そのものにおいてあらゆる形が形成される。それが「作られたものから作るものへ」と向かう世界である。それは、自己形成的な世界であり、絶えず自らにある形を与え、無限に多様な形の下に自己限定してゆき、これらの形はそれぞれ互いに相異なった形を自らに与えつつ、様々な構成形態を形成してゆく。それは、つねに現前する現実の世界であり、外部から来るいかなる所与も前提としない。それは、表現の世界であり、その構成要素が自己表現することによって自己表現する。とりわけ、私たちの身体的自己は、世界が自らを表現するパースペクティヴがそれに対して開かれる焦点であり、まさにそれゆえに世界が自己自身の内部において自己を表現するパースペクティヴの一中心である。歴史的生命の世界は、また行為的直観の世界でもあり、そこでは身体的自己が行為を通じて自らに見える形を与え、それと同時に、世界は、その行為する身体的自己に対してある形の下に組織される。行為的直観によって、世界は、直接的に把握され、それによって、世界は、自己についての原初的根源的知識を自らに与える。純粋経験の前反省的な直接的明証性は、歴史的生命の世界における行為的直観によって与えられる根源的知識として捉え直されているのである。歴史的生命の世界は、各瞬間に自らを限定しながら、すべての出来事をうちに含む。それは、また、自覚の世界であり、そこで私たちの身体的自己は、この世界に自ら形を与えることそのことによって世界の自己形成作用の一作用点として働き、そこにおいて歴史的生命が自らに直接現れることとしての自覚が成立する。西田哲学において始まり続ける哲学の〈始源〉は、この歴史的生命の世界の根本構造としての自覚において顕現している。










生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十六)

2014-03-19 00:00:00 | 哲学

3.2.4 〈表現〉

歴史的世界の作業的要素として我々の身体がロゴス的であるということは、同時に対象的なるものが何処までも表現的であるということである。かかる世界が歴史的生命の世界として自己自身を形成することが、我々が見るということである。

 私たちの行為的身体は、歴史的生命の論理を体現するロゴス的身体として、自らが生きる世界に論理的な形を与える。世界に現れる諸事物はこのロゴス的身体との関係において限定される。この世界において与えられた諸対象が表現的であるというのは、私たちのロゴス的身体によってそれらが相互に限定された形においてある関係を形成しているということである。私たちのロゴス的身体もまたその関係を構成する要素としてその中で行為し、その関係がそれとして現れるのはそのロゴス的身体に対してである。この関係がそれとして現れるのが「見る」ということである。

我々が創造的となる時、[・・・]物は我々の生命の表現でなければならない、即ち歴史的生命の表現でなければならない。[・・・] 物は歴史的世界に於ての物として、生命の表現となる時、我々は物に於て自己を見、物を自己と考える、我と物と一と考える。

世界は歴史的生命の自己表現であり、我々の身体的自己はその要素である。生命に於ては、要素は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、独立的でなければならない。

 歴史的生命の世界では、その諸要素がそれぞれ固有の形を自らに与える。私たちの身体がそこで創造的な要素でありうるのは、それが自らに固有の形を与えることによって自らを表現するかぎりにおいてである。そのような私たちの身体に対して現れる諸事物は、ある限定された形において現れることそのことによって、歴史的生命を私の身体に対してある関係の相の下に現れさせる。そのとき、私たちは、その現れたものと共に、歴史的生命の自己形成作用に直接与っているのである。










生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十五)

2014-03-18 00:00:00 | 哲学

3.2.3 〈行為的直観〉

真に具体的な歴史的生命の世界は行為的直観の世界でなければならない。

 歴史的生命の世界を人間の諸行為の次元においてその具体的な諸相の下に捉えるということは、行為的直観がその世界の中で果たしている機能を捉えるということに他ならない。行為的直観は、その起動点である私たちの身体的自己とそれがそこにおいて働いている創造的世界と不可分である。

我々の身体的自己とは、かかる世界の自己限定として、形成せられると共に、又他を形成するものである、即ち働くことによって物を作るのである。而してそれは創造的世界が自己自身を形成することであり、そこに形が現れることである。而して創造的世界の自己限定として形が現れるということ、即ち世界が世界自身を形作るということは、我々が物を見ることである。物は形を有ったものである。

 行為的直観は、私たちの自己によって創造的世界において現実化される。行為的直観を現に働かせるものとして、私たちの自己身体は、創造的世界の現実的要素である。私たちの自己身体は、創造的世界によって与えられたある形がそれに対して現れるものであると同時に、その同じ創造的世界にある形を与えるものでもある。私たちの身体は、このようにこの世界における形の受容者であると同時に贈与者であり、この世界を限定するものでありかつこの世界に限定されるものである。形を与え与えられる私たちの身体がある形をもって世界の中で行為するというそのことが、この世界が自己自身に形を与える形の自己贈与を直接的具体的に現実に顕現させているのである。私たちが生きているこの世界にある形が現れ、私たちがその形をそこに見るという端的な事実そのものが、世界が自己自身に形を与えることによって私たちにおいて自らを見るということを意味している。

行為的直観の世界、我々が現実に生きて居る世界は、創造的世界でなければならない。そしてそれは内に絶対の無を含み、何処までも自己自身を形成し行く世界である。[・・・] 形において形が成立する世界である。

 歴史的生命の世界は、形が創造される行為的直観の世界であり、創造的世界である。この世界が絶対の無を含むとはどういうことか。絶対の無は、絶対の否定と言い換えることができる。創造的世界が無限に自らに新たな形を与えていくのは、世界が自己自身の実体的な同一性を否定し続けるかぎりにおいてである。私たちが現実に生きて居る世界が創造的世界であるのは、世界が無限に多様な形へと自らを限定し続けるかぎりにおいてであり、この意味で、世界は、自らのうちに絶対の否定を含んでいると言うことができる。

人間は歴史的生命の世界の創造的要素なるが故に、働くことが見ることであり、見ることが働くことである。我々は単に生れ、形造られるのみならず、形を見るのである。そこに我々が永遠に触れるという意義があるのである。人間のみロゴス的身体を有ち、個性的な形を形作ると云うことができる。

 ここで〈働く〉、〈見る〉とはどういう意味なのだろうか。人間は、歴史的生命の世界の創造的要素として行為することによって、自らに身体的なある動的な形を与えると同時に、自らが生きる環境の中に見える形を与える。このような自己身体を持つ人間にとって、〈働く〉とは、自らが生きる世界に見える形を与えるということである。私たちのすべて所作は、それが為されるまさにその場所にある形を与える。〈働く〉とは、世界を形作るであり、世界の形成作用を実現することである。私たちの身体は、〈見るもの―見えるもの〉であり、〈見る〉ことは、それ自身それ固有の見える形をもった私たちの身体がそこにおいて働く見える世界にある形を与えることである。
 もし私たちの身体が生物の世界の次元でしか行動しないとすれば、私たちは、ただ生まれ、形成されるだけである。この次元には、与えられた形の反復があるだけで、新しい形の創造はない。生物であるかぎり、それぞれの人間の身体は、他の身体と同様な一個体であり、一つの種に属する。しかし、歴史的生命の世界に生きるものとして、私たちは、生物の世界に属する形には還元できない形をそこに見ることができる。それは、もはや与えられた同じ形の単なる反復ではない。私たちの身体的自己は、生物の世界には存在しなかった新しい形を創造することができる。歴史的生命世界においてある形を見るということは、その世界がそれ固有の形を自らに与えるというその世界の恒常的な論理がそこに現実化されているということであり、その意味でその形をそれとして見る或いは作り出す私たちは、そこで永遠に触れているということができる。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十四)

2014-03-17 00:00:00 | 哲学

3.2.2 〈自己形成〉

形成作用とは、環境と生命と一である世界の自己限定ということでなければならない。現在が現在自身を限定するということでなければならない。現在が現在自身を限定する永遠の今の自己限定に於て、環境と生命とが一であるのである。

 形成作用とは、形を与えることである。西田の言う〈形〉は、一般的な意味での見えるもの或いは触れうるものの形だけを指しているのではなく、或る物の内部構造、事物間の関係、諸々の具体的行為、諸現象、諸事物がその中で機能するシステムなど、この世界において他のものと相互に限定しあいながら何らかの現れ方をするものすべてを指している。
 歴史的生命の世界の形成作用は、真実在の自己形成作用にほかならない。真実在は、それ自身によって在り、それ自身によって働き、自己自身を限定するものであり、他のものによって限定されるものはすべて真実在ではないのであるから、真実在の形成作用は、つねに現在の自己限定として捉えられなければならない。

物を見る、物が見られるということは、自然が物を形成することである、物が自然に形成せられることである。歴史的自然が自己自身を限定すると云ってもよい。

 物がある形を取って見えるものとして現れるということを歴史的生命の論理に従って説明するとどうなるか。ある物を見ているのは私である。しかしある物がそこに見えるものとして現れさせているのはそれを見ている私がではない。しかし、またその物が私にそれをそれがある場所に見えるようにさせているのでもない。ある物を見る、ある物が見られるということは、自然が自らのうちに見えるものを形成し、自らに見える形を与えるということである。見えるものがあるということそのことにおいて、自然は、自らに形を与えているのである。自然自身が〈見るもの〉―〈見えるもの〉という相対的な二極に自己を差異化していると言ってもよい。

真の形成作用というのは、歴史的実在の世界の自己限定として、永遠の今の自己限定として、成立するものでなければならない。それは歴史的生命が自己自身を見ることである。

 私たちが生きるこの世界にある形があるというこの単純な事実は、歴史的現実の世界が各瞬間に自らにある限定された形を与えているということに他ならない。世界は、自ら自己自身を連続的に創造し続けている。真の形成作用である歴史的現実の世界の自己形成作用は、瞬間ごとに十全に具体化され続けている。この作用が各瞬間を掛替えのないものにしている。このようにして、歴史的生命は、自らのうちに自らある形を与えることによって、自己自身をその都度の今において十全に見ているのである。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十三)

2014-03-16 05:42:00 | 哲学

3.2 歴史的生命の世界を構成する四つの根本契機

 歴史的生命の論理は、その動態において包括的に捉えられた現実の世界の論理的構造として構想されていることは、以上の考察から明らかであろう。この論理によって構成される歴史的生命の世界の力動的な重層構造を決定している四つの根本契機がある。それらの契機は相互に不可分であり、それぞれ他の三つの契機を含意しているとも言えるが、以下「論理と生命」に基づきながらそれぞれの契機について西田の立論を簡潔に再構成して示していく。

3.2.1 〈自己限定〉

生命の生れ出る世界は、生命と環境とが弁証法的に一つの世界でなければならない。

 生命がなければその環境もなく、環境がなければそこから生まれ出る生命もない。生命と環境は、不可分であり、両者相俟って一つの全体をなす。しかし、生命と環境は連続的な統一体でも同質的な全体でもないと同時に、その関係は互いに外的な二項の間の関係でもない。生命と環境は弁証法的に統一されているということは、相互に限定し相互に対立しながら一つの全体を形成しているということである。環境の基底は物理化学的な世界である。それゆえ生物をその世界の一定の構成要素からなる個体として分析することができる。そのような個体としての形を取るかぎり、生命は物理化学的世界にまったく依存している。しかし、そのことは生命現象を物理化学的作用反作用に還元できるということを意味してはいない。なぜなら、生命は、単なる物理化学的世界そのものからはけっして生まれないからである。生命が生まれるためには、物理化学的な世界の原理とは異なった原理がそこになくてはならない。特定の物理化学的現象に還元しえないものである生命は、物理化学的世界に到来した出来事なのである。生命の誕生とともに、それが現れた環境はもはや単なる物理化学的世界ではなくなる。それはまさに生命の世界となる。しかし、この生命の世界をそれ固有の内的過程から直接的に理解するためには、生命と環境との相互作用や相互依存を考えるだけでは不十分である。なぜなら、生命は、それ自身によって在り、それ自身によって働き、自己自身を限定するものだからである。世界が生命と環境とに自己を差異化することによって自己を限定するというそのことが、生命の自己表現なのである。
 時系列に沿って言えば、世界は、物理的世界から人間の世界へと、生物の世界を介して段階的に形成されていく。しかし、このことは、物理的世界に生物の世界が付加され、次いで生物の世界に人間の世界が付加されるということを意味しているのではない。生物は物理的世界に生まれることはできず、人間は生物の世界に生まれることはできない。生物は生物の世界に、人間は人間の世界に生まれなければならない。この三つの世界を包括的に理解するためには、それらを歴史的生命の世界から考えなければならない。なぜなら、歴史的生命の世界がすべての現実的に限定された世界を包んでいるからであり、そこですべての出来事が生じるからであり、そこからすべての進化の過程が発生するからである 。生命とは、まさに歴史的生命の世界の出来事にほかならない 。歴史的生命の世界においてこそ、生命と環境との二元性が生物の世界の次元で形成されるのである。

真の生命とは、[・・・]限定するものなき限定として、世界が世界自身を限定することである。

 もしその外部から生命の世界を限定する限定者があるとすれば、その世界はもはや真の生命の世界ではない。真に実在的なものはそれ自身によって存在し、それ自身によって働き、自己自身を限定するものでなければならないからである。それゆえ、真の生命は、自己自身を限定するものでなければならない。生命それ自身以外に生命を限定するものはなく、生命は自己限定する世界そのものである。

限定するものなき限定としては、無数の自己自身を限定するものが成立せなければならない。

 真の生命は、無限に自己自身を限定しなければならない。もし生命が自己自身を限定しなくなれば、生命もなく死もない。それゆえ真の生命の自己限定は、無数の自己限定者の実在として具体化される。真の生命における一般者と個物との関係、つまり普遍的なものと個別的なものとの関係は、それぞれそれ自身の自己限定によって独立した実在である無数の個物として一般者が自己自身を限定することによる個物と一般者との同一性である同時に、個物における他の個物の否定・同化と自己の個別性の自己否定を介して保たれている個物と一般者との同一性でもあり、この関係が西田のいわゆる矛盾的自己同一である。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十二)

2014-03-15 00:00:00 | 哲学

3.1 最後期西田おける生命の定義

 西田哲学において、生命とは、真実在に他ならない。それは自己自身によってあり、自ら働き、自己限定するものである。西田が特に「真の生命」と言うとき、それは、私たちの自己によって直接に把握された生命を指す。人間も含めた生物一般によって生きられている生物の世界と人間に固有の世界を西田が区別するのは、この真の生命が直接に把握される可能性の条件が満たされる次元を特定する必要がある場面においてであり、人間を中心に置いた世界像を構築することがその目的なのではない。したがって、西田の生命の哲学を人間中心主義と見なすことはできない。私たちの自己において自らに直接現れる生命の自証をまさにそれとして捉えることが西田哲学の根本問題なのである。
 歴史的生命の論理において生命がどのように定義されているか見てみよう。

生命は絶対に相反するものの自己同一として成立するものでなければならない。

真の生命は死を含む 。

 この二つの命題から次の二つの命題が導かれる。第一に、生命は死という自己否定をそのうちに含んでいる。第二に、しかし、そのことはある全体の中にそれを否定する要素が含まれているということではなく、相互に還元不可能な相対立する二つの契機の同一性を意味している。
 では、それはどのような同一性なのか。言い換えれば、どのような意味で生命は死と同一であると言うことができるのか。この問いに答えるためには、私たちすべてを生かしている普遍的な生命と私たちそれぞれによって生きられている個々の生命との区別と関係を明らかにしなければならない。普遍的生命は、私たちそれぞれが生きている個別的生命に対して超越的なものではないし、私たちがそこに生きている環境世界の基底として偏在するものでもない。それは現象世界の彼方あるいは手前につねに自己同一的なものとして留まるような何ものかではない。しかしながら、普遍的生命は、人間を含めた諸々の生物の単なる集合体なのでもない。普遍的生命は、無数の個別的な生命として自己限定することそのことによって自己を具体的に実現していく。それぞれの個別的生命は、ある時ある所に、時間空間的に限定された生命として、例外なくその生誕から死へと定められたものとして現れる。個別的生命は、それが一個の独自の有限な人格として限定されつつ自ら行動するとき、普遍的生命の創造的要素として環境世界に現れる。この二つのベクトル、普遍的生命から個別的生命へと向かうベクトルと個別的生命から普遍的生命へと向かうベクトルが〈生命〉という唯一つの同じ現実を構成しているのである。

真の生命というものは、自己自身の中に何処までも否定を含むものでなければならない。それが歴史的生命である。

我々は内に絶対否定を含む歴史的生命の世界の個体である。

 それぞれ世界において独自な個体として行動する個別的生命が増えれば増えるほど、普遍的生命は、その普遍性を具体化していく。生命がそれぞれ独立して生きる無数の有限な個別的生命として自己を限定しているというそのことが生命の顕現に他ならない。個別的で有限な生命であるかぎりにおいて、私たちそれぞれは普遍的生命の否定である。しかし、まさにそれゆえにこそ、普遍的生命は、その自己否定によって、私たちにおいて具体化されるのである。私たちそれぞれがそれぞれの仕方で生きているということは、普遍的生命の否定の現実性に他ならない。しかしながら、まさにこの事実の中にこそ、普遍的生命の自己否定が現実化されているのである。個別的生命は、二つの対立する二項のうちの一項として普遍的生命に対立しているのではない。普遍的生命は、有限な個別的生命の無限の多様化という自己否定を通じてのみ現実化されるのである。このような普遍的生命と個別的生命との矛盾的同一性が〈生命〉に他ならない。そして、それがまさに西田の言う「歴史的生命の世界」である 。
 しかし、なぜ単に生命ではなくて、生命の世界なのか。生命は、無数の形を自らに与えながら空間において自己を展開しなければならない。生命一般はそれがそこにおいて形成される環境と不可分である。生命は、そこにおいて生物としての形を自らに絶えず与える環境との関係において自らを限定する。生命は、環境と共にある形態を構成する。生命と環境との関係は、一般に両者の相互依存と相互限定とのあり方によって特徴づけられる。ところが、人間における生命とその環境との間の関係は、相互依存と相互限定には還元されない。というのは、人間における生命は与えられた構成形態を変更したり、その中で自己が形成される新しい構成形態を創造したりすることができるからである。人間がそこから生まれながら能動的に変化させることができる環境を生物一般の環境から区別するために、西田は、それを特に「世界」と呼んでいるのである 。西田の言う生命の世界は、それゆえ、その厳密な意味においては、人間もまた生物として他の諸生物と同様に属する生物の環境世界を指しているのではなく、人間が他の諸生物と区別され、その創造的要素として行動する世界を指しているのである。
 では、なぜ単に生命の世界ではなくて、歴史的生命の世界なのか。生命は、自らの過去を保持しかつ自らを未来へと投企することによって、その普遍性を時間の中で具体的に更新しつつ現実化していく。生命の世界は、自らに与えられた諸形態によって自己を現実化しながら、自らにさらに新しい形を与えることで自己を展開させていく。この過程が歴史として具体的に形成されていく。したがって、西田の言う歴史的生命の世界とは、人間に固有な生命の世界のことだけを指しているのではなく、人類の歴史もそこに含まれた生命の全展開過程を指しているのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十一)

2014-03-14 01:22:00 | 哲学

3— 最も現実的なものとしての〈生命〉

 西田哲学は、一つの生命の哲学である。とりわけ最後期の西田哲学には、「歴史的生命」の哲学という包括的規定を与えることができるだろう。この歴史的生命とは、生命一般のある特定の領域あるいは次元を指すのではない。それは、まったく反対に、すべての現象を包括する普遍的生命のことである。歴史とは、生命が具体的にそして十全に自己表現する場所のことである。歴史的生命とは、それゆえ一つの歴史的世界として自己を十全に表現する生命のことであり、歴史は、生命の自己限定の過程として自己自身を理解するということを意味している。生命は、ある場所に自己限定する諸形態、自己形成的な歴史的世界のある局面の構成を絶えず自らに与える。歴史的生命は、自らの内部に新しい形を与えることによって自らを絶えず超越していくと言う意味において無限に開かれている。西田哲学において、哲学の〈始源〉は、このような歴史的生命の論理の中で最も十全な形で捉えられている。
 私たちは、本節において、歴史的生命の論理の基本構造がよく示されている論文「論理と生命」に基づきながら、まず最後期西田における生命の定義について考察し、次いで、歴史的生命の世界を構成する四つの根本契機である〈自己限定〉〈自己形成〉〈行為的直観〉〈表現〉それぞれに西田によって与えられた規定をそれとして明確に取り出し、締め括りとして、最後期の西田哲学において生命論によって開かれた世界像を示す。










 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十)

2014-03-13 00:00:00 | 哲学

2.2.2 真実在の自己表現としての自覚
 真実在は、それ自身においてあり、自ら働き、それ自身を限定し、直接的に経験される疑いえない事実としてそれ自身に現れる。この根源的事実は、絶えず自己自身を限定し、自己否定によって自己自身に現れ続ける。では、それは、どこにおいてどのように自らに現れるのか。西田は真実在の自己対象化とその自己表現とを同一のことと考える。真実在は、自己を全面的に対象化することによって客観的なもののうちに自らを限定し、絶えずその絶対的自己否定によって自己を客観的に表現することにおいて、自己自身に直接的に現れる。この根源的事実は、私たちが生きる現実を構成する諸現象の世界によって隠蔽さているものではなく、まったく反対に、その世界そのものの内部に与えられたある時ある所であるものが私たちに現れるというというそのことにつねに直接的に顕現しているのである。つまり、あるものが今ここで私に現れているということは、真実在が自己否定によって自己表現していることの現実的な作用に他ならないということである。現れることそのことが自らに直接現れているそれぞれの事実において、〈自己〉は、私たちにおいてそれとして直接的に生きられているのである。そして、まさにそこにおいてこそ、私たちの自己は、「真実在の自己表現の過程」として自覚する。
 それでは、各瞬間に自覚するものとつねに始まり続ける自覚との関係、つまり私たちそれぞれの自己と自ら働くものである真実在との間で現に保たれ続けている関係とは、どのようなものなのか。すべての出来事は真実在の自己限定として現れるとすれば、私たちの自己の実在は、いかなる意味においても真実在に先立つものではない。しかし、このことは、私たちの自己が真実在に全体に対する一部という関係において帰属することを意味しているのではない。もしそうであったとすれば、私たちの自己と真実在との関係は相互依存の関係に還元され、どちらもその独立性を失ってしまう。「自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない」のであるから、それは絶えず自己否定し続け、まさにそれゆえにこそ、私たちそれぞれの自己は自覚するものとして真実在から完全に独立し自律しうる。この意味で、私たちの自己は、その固有の実在において、自ら働き自己限定する真実在を〈映し〉、あるいは〈表現〉している。「我々の自己が、自己自身によって自己自身を限定するものの自己表現の過程として、真実在の自己表現の一立脚地となる」のである。つまり、真実在が「自己の中に自己を映す」ということが私たちの自己において具体的に現実化されているということである。ここから哲学の根本的な規定が引き出される。

哲学は[・・・]、真に自己自身によって有り、それ自身によって自己自身を限定する根本的実在の自己表現の過程として、何処までも否定的自覚、自覚的分析でなければならない。而してそれはすべての実在の根拠、実在の実在の学として、見るものなくして見る立場、世界が自己自身を映す立場でなければならない。そこには何等の意味に於ても対象的なるもの、否、基体的なるものがあってはならない。推論によって求められるものがあってはならない。

 真実在とは、私たちがそこにおいて生き、それを現実に生きている世界、西田がいう「歴史的世界」「歴史的実在の世界」「歴史的生命の世界」「すべてがそこからそこへ」の〈そこ〉である。「歴史的世界と云うのは、我々の自己がそれに含まれた世界であり、我々がそこから生まれ、そこに於て働き、そこへ死に行く世界である。我々の自己に絶対的な世界である。」自覚は、この歴史的世界が自己限定し、自らに形を与え、それ自身のうちに自己を表現するということから生まれる。自覚は、根本的に世界の出来事であり、世界が自らに与えるものである。しかし、その世界の自覚が最も具体的直接的に現実化されるのは、私たちそれぞれの自己においてであり、「我々の個人的自己の自覚は、かかる世界の自己自身を限定する唯一的事実として成立するのである。」「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である。我々の知識は、世界が自己の内に自己を映すことから始まる。」私たちの自己において直接経験される世界の自覚は、私たちの自己に世界の直接経験を与える。つまり、世界の直観であり、それは「すべての点が世界の始となる、時間的・空間的、空間的・時間的世界の自己限定として、見るものと見られるものとの矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する、形が形を見ると云うことである。」この直観こそ西田が「行為的直観」と呼ぶものであり、それは私たちの行為する身体である歴史的身体によって現実化される。
 〈生命〉そのものである〈始源〉に触れることなしに哲学を始めることはできない。私たちの自己の自覚は、〈始源〉に触れることそのことである。自覚は、あらゆる哲学的思考の根柢につねに作用していると言うことができる。しかし、まさにそうであるとすれば、それゆえにこそ次の問いが提起されなければならない。私が哲学を始めるには、私において自覚が経験されるだけでよいのだろうか。そうではないだろう。なぜなら哲学の〈始源〉は、哲学そのものではないからである。哲学は、学問としてそれ固有の方法を要求する。自覚を厳密な意味での哲学の方法として確立することはできるのだろうか。この問いに答える鍵は、西田が哲学の方法を、単に自覚とはせずに、否定的自覚と規定していることにあると思われる。私たちはこの西田哲学の方法論という問題を第二章で詳しく検討する。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(九)

2014-03-12 00:03:00 | 哲学

2.2.1 デカルト再考
 昨日の記事で引用した第二の定義がその「付録」の中に見出される論文「デカルト哲學について」の中で、西田はデカルトによって提起された問題と実践された方法へと今一度立ち返って考えることの必要性を訴えているが 、それはまさに哲学を根本的に始め直すためであり、つまり哲学の〈始源〉を再び見出すためである。「今や近世の主観主義的哲学が行詰って、その根柢から考え直さねばならぬ時期にある 」と同論文の中で書くとき、西田は疑いもなくフッサールが『デカルト的省察』の中で感じていた危機感を共有しているのである 。その死の前年に書かれたこの比較的短い論文の中で、西田は自らが到達した最終的な哲学的立場から自己の哲学的探究の方向性をデカルトのそれとの関係において位置づけている。デカルト的懐疑の徹底性をきわめて高く評価する一方で、デカルトが到達したコギトを、実体化せずに、それを真実在の自覚として、さらに徹底化させるべき方向を示すことによって自らの哲学的立場をデカルトのそれから区別している(本稿では、西田のデカルト解釈の当否について、それを現代のデカルト研究の成果に照らして検討することはしない)。それゆえ、西田がデカルト哲学について提示する論点とそれについて表明される西田固有のテーゼとを考察することを通じて、西田において哲学の〈始源〉が顕現する場面を捉えることができるだろう。
 西田にとって哲学の根本問題とは、「自己自身によって有り、自己自身を限定する 」真実在の問題である。「哲学の対象は対象なき対象である、自己自身に於てあり、自己自身によって理解せられる真実在である 。」「対象的に知ることのできない自己は、最も能く自己に知れたものでなければならない。一方に我々は自己が自己自身を知ると考える、かかる意味に於て知るとは、如何なることを意味するのであろうか 。」このように定式化された前提と問いから、西田はデカルトの『省察』へと接近する。
 西田のデカルト哲学へのアプローチの特徴をよく捉えるためには、それゆえ、西田による真実在の定義をまず理解しておかなければならない。

真に自己自身によって有り、自己自身を限定するものは、それ自身に於て有り、それ自身によって理解せられるのみならず、自己自身を理解するもの、自覚するものでなければならない。

 真実在は、他のすべての可能な存在者に対して独立に必然的に存在し、他のものとの関係において理解されるものではなく、それ自身によって理解されるものでなければならない。この「それ自身によって」は二重の意味を持っている。つまり、「他から独立にそれ自体において」という意味だけでなく、「他に拠らず自ら」という意味も持っている。したがって、それ自身によって理解されるものは、自己自身を理解するものに他ならない。ここには自己理解を遂行するものの内部分裂、つまり理解する自己と理解される自己との内部分裂があるのだろうか。そうではない。なぜなら、真実在は、また自己自身を限定するものでもあり、唯一の実在が理解するものと理解されるものとに自己限定するからである。それゆえ、ここでは主観的自己と客観的自己との間の実体的区別が問題になることも、超越論的主観性と志向的客観性との間の現象学的区別が問題になることもない。ここで問題になっているのは、いかなる実体的基底も前提せず、いかなる種類の二元論にも還元されえず、超越論的自我をまったく要求することのない唯一つの同じ過程としての自己理解である。自己自身を理解するものは自覚するものであるというのは、自己が直接的にまったき自明性とともに自己自身に与えられるということであり、そこには最初に経験された自明性から出発して構成されるようないかなる推論過程も介在する余地はない。
 このような真実在の定義から、西田は、その直接的な把握へと導く途を開く哲学の方法を導出しようとするのだが、まさにそこにおいてデカルトの『省察』を喚起する。西田によれば、真実在へと至る哲学的方法とは、「懐疑による自覚」であり、それはデカルト的懐疑であり、「徹底的な否定的分析」に他ならない 。この哲学の方法は「否定的自覚、自覚的分析 」とも規定される 。真実在は、いかなる仕方でも、外部から到達され、掌握され、解明されるものではありえない。それは、自己自身から自己自身によって自己自身において明らかにされなければならない。それを可能にするのが「絶対否定的自覚 」なのである。西田は、それをデカルト的懐疑と同一視するわけであるが、西田にとって重要なのは、徹底的な懐疑を通じて、徹底的に懐疑することそのことのうちで自覚が直接経験されるということである。
 しかし、西田は、デカルト哲学の不徹底性を批判する。その批判点は、自己の実体化に関わる。徹底した懐疑において直接経験される自覚は、それ自身からそれ自身によってそれ自身において明らかにされる純粋な事実でなければならず、この事実はその実体化へと導くどのような推論も許さないというのが西田のデカルトに対する批判点である。この実体化は、自覚を実体的に自己同一的なものとし、その結果として、不可避的に自覚の自己否定性を排除してしまう。このように自覚するものが実体化されてしまうと、自己否定の無限の過程である自覚はその生命を決定的に失ってしまう。「コーギトー・エルゴー・スムと云って、外に基体的なるものを考えた時、彼は既に否定的自覚の途を踏み外した、自覚的分析の方法の外に出たと思う 。」西田によれば、疑う自己の実在そのものにまで及ぶ懐疑は直接的に経験されるもので、思惟するものの実在という形式においては自己にけっして現れず、自己否定的な思考の自己矛盾的同一性として把握される。「自己は、何処までも自己自身を否定する所にあるのである。而もそれは単なる否定ではなくして絶対の否定即肯定でなければならない。それは主語的論理が自己自身を否定することによって考えられる実在でなければならない 。」「デカルトは、自覚の立場から、すべてを否定した。併し[・・・]真の否定的自覚の立場に至らなかった 。」西田の哲学的立場からすれば、デカルト的コギトは、その実体的自己肯定によって特徴づけられるのに対して、西田の哲学の方法としての自覚は、無限の過程として経験される自己否定によって特徴づけられる。この自己否定は、しかし、主観的無化でもないし、主体の無化でもない。徹底した自己否定の過程において経験される確実性は、絶対的否定の現実性に他ならない。