内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近代西洋古典教育の産物としての「古代ギリシア哲学」から古代ギリシア哲学の実像へ立ち返る遠い道のり、あるいは「カエサルのものはカエサルに」

2019-11-10 23:59:59 | 哲学

 Pierre Vesperini, La philosophie antique. Essai d'histoire, Fayard, 2019 は、ヨーロッパ近代における西洋古典教育によって西洋の「文化遺産」として収奪され、西欧思想の起源という地位に祭り上げられた「古代ギリシア哲学」を、歴史的現実としての古代ギリシアにおけるその本来の社会的活動としての philosophia に復位させ、その多様な様相を描き出す試みである。西洋哲学史の第一章として、宗教や神話から脱却して「理性を思考の原理とする最初の哲学者たち」の輝かしい列像からなる「古代ギリシア哲学」という虚像を解体し、古代ギリシア哲学に対して、いわば「カエサルのものはカエサルに」を実行する歴史家による脱構築の試みである。
 それを著者は「デカルト的」な古代への接近という(p. 12)。しかし、それはすべての判断を中断する方法的懐疑を実行するということではなく、「私たちが学校で学んだすべてのこと」を括弧に入れ、虚心に事柄そのもの向き合うということである。そのようにしてはじめて、私たちは「見ずに見ていたものを発見し、読まずに読んでいたものを読むことができる」ようになるだろうと著者は言う。












ストラスブール大学で日本の哲学の研究ができる環境を整える ―『K先生の黄昏恍惚夢想録』(未刊)より

2019-11-09 14:00:10 | 講義の余白から

 昨日金曜日の午後は、前期に各教員が回り持ちで一回だけ担当する Méthodologies disciplinaires というマスター一年生向けのゼミの私の担当回でした。このゼミでは、各教員が自分の専門分野での方法論を自由に語ることができます。一回三時間、時間はたっぷりあります。
 ただし、私の場合、いくら哲学が専門分野とはいえ、日本学科のゼミですから、哲学そのものを正面から語るわけにはいきません。日本思想史における私の方法論(などと偉そうな言い方ができるような仕事はしていないわけですが)をおずおずと語ることになります。
 それに、こちらのこれまでの研究内容を相手構わず一方的に捲し立てただけでは、学生たちには理解し難く、ただただ苦痛な拷問のような三時間になってしまいます。
 そこで、落語のひそみに倣って、枕として、万葉集研究に挫折した後、なぜフランス哲学を選んだかというところから説き起こし、現在に至るまでの紆余曲折に満ちた我が「荊棘の道」について、浪花節的でお涙頂戴式に脚色と誇張を交えて、講談風に語るところからゼミは始まります。
 枕の話で笑いも十分に取り、教室の空気が和んだところで、私の過去の研究から、いくつかの例を挙げつつ、哲学を基礎に置きながら、いかに日本思想史研究を行うか、という本題にやおら入るわけです。
 博論提出以後に話を限ってもすでに十六年が経過していますから、いくら浅学菲才・懶惰無精の身とはいえ、仏語で出版した論文もそれなりにあり、その中から、学生たちに比較的わかりやすく、日本研究らしい体裁を整えた論文を選定する作業は、私自身にとって、これまで自分はいったい何をやってきたのかという問いを改めて自分に突きつけることでもありました。
 相手はたった六人ですし、小さな演習室ですから、関心をもって私の話を聴いてくれているかどうかは、直にビンビン伝わってきます。ちょっと話が抽象化すると(例えば、西谷啓治の「空の思想」の話とか)、途端に彼らの集中力が低下するのがわかります。そんなときは、すぐに話題を切り替えます。
 そんなこんなで、それでもかなりテツガク的な話を二時間以上に渡ってしたのですが、比較的よく聴いてくれました。学部生のときから哲学的な関心をもっていて、私が修士論文の指導教官になっている学生からはいい質問も出ました。全体として、彼らにとっていくらかは「刺激的な」話ができたかなぁ、といったところです。
 ちょっと話は逸れますが、先月来、ドイツのフライブルク大学で京都学派についての博士論文を準備している学生が私の別の授業に出席してくれていて、その学生から今度自分の博論について意見を聞きたいとの依頼を受けています。
 ストラスブール大学で日本の哲学について研究できる環境を整える、これが黄昏れていく人生の中で恍惚としかけている東洋の老生の見果てぬ夢であります。













一般教養を豊かにし、問題を広く深く考えるための推薦図書を毎回紹介する

2019-11-08 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の記事は、ちょっと小学生日記みたいな綴り方です。
 中学生日記だと、その年頃にありがちな精神的葛藤が表現を屈折させそうですが、小学生日記ですから、もうちょっと素直、というか、無邪気というか…
 と言った途端に、「おまえは、現代日本の小学生の鬱屈した心理や小学校の教育現場の困難が何もわかっとらん!」とお叱りを受けそうですが、それはさておきまして、話を続けます。
 今日の午前中、ヴァカンス前の試験の答案を学生たちに返却しました。個々の答案についての講評は、大学イントラネット内のこの授業専用のページにアップしておいたので、教室では、答案全般についての講評を述べました。その内容は、おおよそ一昨日の記事に公表してあるので繰り返しません。
 今日の授業では、試験問題に関連した日本語のテキストを一緒に読みながら、日本の近代の特異性についての理解を深めることを試みました。
 日本固有の近代化については、前田勉『江戸の読書会』(平凡社ライブラリー 2017年)の附論「江戸期の漢文教育法の思想的可能性―会読と訓読をめぐって」を読みながら、身分の尊卑を排除した漢文訓読体が幕末から明治にかけて四民平等の理念を体現する文体として機能したこと、神道非宗教論については、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書 1996年)を読みながら、その紆余曲折を経た形成過程を辿りつつ、表向きの政治的論理とそれと表裏をなす集合的心理、現代にまで及ぶその影響などを説明しました。
 どちらの話題にもこちらの予想以上に学生たちが喰いついてきて、話し甲斐がありました。彼らがどんなところに関心を示すのか改めて確認する機会となりました。
 その後、「おまけ」として、日本文化についての認識を深め、さらには一般教養をより豊かにするための推薦図書として、Michael Lucken, Le Japon grec. Culture et possession, Gallimard, « Bibliothèque des Histoires », 2019 ; Maurizio Bettini, Éloge du polythéisme. Ce que peuvent nous apprendre les religions antiques, Les Belles Lettres, 2016 ; Romain Graziani, L’Usage du vide. Essai sur l’intelligence de l’action, de l’Europe à la Chine, Gallimard, « Bibliothèque des idées », 2019 の三冊を紹介しておきました。
 いずれも非常に優れた内容でかつ大変面白く読める著作です。二冊目については、2016年11月28日の記事から四日間に渡って取り上げていますので、そちらを御覧ください。 一冊目と三冊目については、後日記事にいたしますので、乞うご期待。今日のところは、出版社の紹介ページへのリンクを貼っておくだけにします。
 「近代日本の歴史と社会」では、テーマをめぐる諸問題の理解を深めるための推薦図書ばかりでなく、一見授業のテーマとは何の関係もないような、しかし一般教養を豊かにし、自分たちが直面する諸問題を広く深く考えるために役に立つ本も併せて、毎回学生たちに紹介しており、その数すでに数十冊に達しています。その中の一冊でも学生たちが読んでくれれば、こちらとしては本望です。












戦時下の日常を生き抜く―『この世界の片隅に』についての秀逸感想集

2019-11-07 19:43:25 | 哲学

 一昨日火曜日、「日本文明・文化」の中間試験を行った。この授業は、すべて日本語で行う。試験も同様。試験の主題は「戦時下の庶民の日常」とした。この問題について考える材料として、ヴァカンス直前の授業で片渕須直監督『この世界の片隅に』の前半を観ながら、この優れた作品の細部の歴史的正確さへの注意を学生たちに促しておいた。試験準備として、ヴァカンス中に映画全編を観ておくようにと指示した。
 試験問題は全部で十問。まず、映画の前半についての細部の理解を問う小問四つ、そして、後半の重要なシーンについてそれぞれその理解を問う五問。最後の一問は、「戦争の中の日常を、広島と呉で、さまざまな困難を乗り越えながら生き抜いた北條すずとその家族の姿を見て、あなたはどんなことを感じましたか」という、自由に感想を書かせる問題。ただし、日本語で書かなければ、零点。
 この最後の問題への解答の中から、内容・文章ともに秀逸なのをそのまま掲載する。

北条すずと彼女の家族の生活を見ると、映画が思ったよりもはるかに深いことがわかります。この映画は戦争についてではなく、すべての普通の人々の内部の闘争についてです。その人生は、どんなに不幸であっても、悲惨さや絶望のときでも続きます。これらすべての人々の日常生活の例を使用して、映画は、最も困難な時代でも愛は戦争よりも強くなる可能性があると考えさせます。

映画を見ながら、私は北条の家族とすずを気の毒に感じました。食糧不足、空爆、死ぬ人など、彼らが経験した不幸にもかかわらず、北条の家族は強いです。すずは、人生が再び美しくなることを願っています。人々が苦しんでいるのを見た時、私は泣いていました。無実でありながら戦争の犠牲者です。映画のキャラクターが感じている苦痛と恐怖を認識しています。私は空爆や戦争を経験しなかったことは幸運だと思います。

すずの日常を見る時に、人生の本当の意味を考えました。戦争でも、すずの生活は普通でした。家族があったり、夫があったり、姪もあったりした。日常の中に幸せがあります。料理とか、裁縫とか、描くこととか、何処にも面白いことがあります。戦争がもたらすのは、痛みや飢えや破滅ですが、それだけではありません。本当の戦いは生き抜くことです。すずの力は普通の生活を生きることです。映画のおかげで、その小さな喜びを見つけながら、戦争の無残も見ました。

いままでよく戦争映画やドキュメンタリーを私は見てきました。そのため、広島で起きた事は詳しく知っています。けれども、この映画のような、戦争中の市民の生活というものは初めて見ました。『火垂るの墓』も見ましたが、この映画はまたちがう生活を見せます。家があっても、家族が残っていても、戦争中生きるのはとてもたいへんでつらい事が多いことがわかります。いまでもすずたちのように一生懸命生きている人たちがいると思うと、胸が痛みます。そして、この映画を見ていると、なぜあのようにむごい事をしたアメリカのことを許し、いまでは偉大な国だとみな言うのだろうと私は思ってしまいます。アメリカ人のことをすぐにうけいれたところが私には理解できません。けれども、このように、過去の生活や日本人のみなさんはその時何を思っていたのかを知ることができてとてもうれしかったです。

悲しみを感じた。彼らの運命は非常に残酷で不公平だったと思う。彼らは民間人だけた。戦争をすることを選択しなかった。日本政府の決定だった。しかし、最も苦しむのは、すずとその家族のような民間人だ。でも、私は喜びも感じた。なぜなら、困難にもかかわらず、すずとその家族は笑顔を続けるからだ。それは美しいものだと思います。彼らの勇気に感心する。

戦争の時代を経験していない人として、私は戦争がどれほど残酷であるか知りません。しかし、映画の終わりに、非常に悲しくて泣きました。普通の人として、私たちの日常はとても貴重だと思うからです。すずさんの家族と周囲の生活のように、困難があるとき、暖かさがあるとき、悲しみがあるとき、幸せがあるとき、全部の愛する人と過ごすときは大切ですが、戦争はこのすべてを簡単に奪うことができます。私は、最後、すずさんが敗戦を聞いたときの怒りの理由を理解します。彼女は戦争で多くのものを失ったので、自身のすべてを捧げたので、実は、すずさんは、怒りで悲しみを隠しています。映画を見ながら、私の家族と友達と彼らと一緒に過ごした暮らしを思いました。普通で正面から幸せに生きたいです。












中間試験採点を終えての感想 ― 歴史の勉強が楽しくなるような試験問題

2019-11-06 23:59:59 | 講義の余白から

 ヴァカンス前に行った「近代日本の歴史と社会」の試験の採点を今日終えた。なかなか読みごたえのある答案が多くて、感心した。授業の内容をできるだけ活用した答案がある一方、授業外で自主的に調べたことを盛り込んで議論を発展させている答案もあった。
 第一タイプは、いわゆる小論文形式で、日本史における「近代」概念について問う問題。この問題については、授業でももっとも時間を割いて、多数の参考文献を参照しながら考察したこともあり、この問題を選択した学生たちは、それらの参考文献を参照しつつ、場合によっては他の文献も援用しながら、自分自身でよく考えて議論を展開していた。
 第二タイプは、神道非宗教論に関するテキストの注釈。日本近代における religion の翻訳語としての「宗教」概念と国家神道の関係、近代国家としての政教分離の原則などについてテキストの論旨をうまく捉えられているかどうかが評価のポイントになる。
 第三タイプは、日本における「キリスト教の世紀」をその時代の特定の人物の視点から記述することを求める問題。年代・文章のジャンル・人物の選択は、学生たち任せ。ジャンルとして選ばれたのは、日記、書簡、報告書、回想録。人物としては、イエズス会宣教師、ポルトガル商人、キリシタン大名、キリシタンになった武士あるいは農民、オランダ人と日本人女性の間に生まれたハーフなど。
 この第三タイプを選択する学生がもっとも多かったのだが、それは一見これが一番簡単に思えたからであろう。しかし、実際は、このタイプがもっとも難しい。論理的思考力だけでなく、歴史的想像力も試されるからだ。力不足だと、参考文献に書いてあることを登場人物の口に含めて羅列するだけに終わってしまい、それではこのタイプを選んだ意味がない。他方、ただ想像力に任せて書いても、歴史的根拠に欠けていれば、出来損ないの歴史小説の破片にしかならない。選んだ年代・人物等についてよく調べ、その上でその身になって当時の物事を見、考えることを真剣に試みなければ、優れた答案は書けない。結果として、このタイプの答案に一番点数の開きが出る。
 ただ、歴史の現場に身をおいて当時の問題を考えてみよ、というこちらの意図はかなりよく理解されていたことが答案を読んでいてわかる。中には、けっこう楽しんで準備してきたと思われる答案もあって、それは読んでいるこちらも楽しい。
 授業科目である以上、採点はせざるを得ないが、こうすれば歴史の勉強も楽しいし、いろいろと考える機会になる、ということを学生たちが理解してくれることのほうが私にとってはより重要なことである。












例え話による、海外における日本研究についての「反日的」暴言 ―『K先生の黄昏放言録』(未刊)より

2019-11-05 21:58:57 | 雑感

 以下は、良識あるニッポンの人々の神経を逆撫でするような「反日的」暴言です。そんなもの読みたくない方は、ここでこのページをお離れになられますようにお願い申し上げます。
 しかし、けっして酒の勢いを借りての意気地なしの犬の遠吠え的罵詈雑言ではありません。以前から心に蟠っていた屈折した思いをただぶち撒けたいだけです。
 私は偏見に満ちた人間です。そんな人間が吐く暴言ですから、とんでもなく片寄った不快な言辞であるに違いないこと、あらかじめお断り申し上げます。
 ただ、関係各位に迷惑はかけたくないので、よほど事情を知っている方でなければ、何のことかわからないような書き方になることをどうかお許しください。
 私がスペイン文学にとても興味を持っているとしましょう。邦訳はたくさん読んでいる。知識も素人としてはかなりイケている。いや、ちょっと玄人はだしかも知れない。でも、スペイン語はほとんどできない。辞書を片手に原文を辿ることくらいはできても、専門書はとても読みこなせない。旅行先で買い物くらいはできても、日常会話も覚束ない。
 そんな私が、スペインで開催されているスペイン文学会で、「アノォ~、ワタシィ~、スペイン語ォ~、デキナイノデェ~、英語デェ~発表サセテイタダキマ~ス」とか恥ずかしげもなく英語でほざいて、世界中どこからでも誰でも簡単に入手できるような資料にだけ基づいて、スペインの平均的高校生なら誰でもできるような「ハッピョウ」をする。ありえませんよね。
 ところが、そんな研究とも言えない低レベルの夏休みの宿題的な「研究」に対して、「いやぁ~。なかなか面白いですねぇ~」とか真顔で褒めて、異国におけるスペイン文学研究の「発展」をスペイン人たちがパチパチ拍手して寿いだりしたら…… そんなこと、あるわけないって? ないでしょうね、スペインに関しては、おそらく。他のヨーロッパ諸国に関しても、多分。
 でも、それがけっこうあるんですよ、来年夏期オリンピックをその首都で開催する「美しい」国に関しては。














心という書物に文字を刻みつけるという暗喩

2019-11-04 13:18:00 | 哲学

 十二世紀になると、意識、心、内的経験などが「書物」という隠喩によって、liber conscientiae, liber cordis, liber experientiae などと表現されるようになる。精神の内的活動は、書記・写字生の仕事をモデルとして、手書きの文書の作成作業に倣って、書かれ、読まれ、修正されるべき「書物」として表象されるようになる。
 例えば、フランシスコ会厳格主義者たちにあっては、苦行によって心という羊皮紙に言葉を刻みつけるという表象が生まれる。
 この心という書物という暗喩は、以後ヨーロッパに広く伝播していく。ドミニコ会修道士にして師エックハルトの神秘主義の後継者・擁護者であったハインリヒ・ゾイゼ(1295‐1366)においては、この暗喩を文字通り実践するという過剰な熱誠に至り、キリストの名を自分の体に刻みつけるまでになる。
 十一世紀末から多様な形を取って広まっていったキリスト教信仰の刷新と識字率の漸進的な向上とによって、霊性の書は、ラテン語あるいはそれぞれの現地語によって書かれ、普及していく。それは、現実の書物としてばかりでなく、象徴的な「書物」としても、十五世紀に至るまでのあらゆる階層の人々に受け入れられていく。












読誦(lecture)・瞑想(méditation)・祈り(prière)・観想(contemplation)―「アンセルムス革命」後に洗練化されていく霊操の四つ階梯

2019-11-03 17:12:50 | 読游摘録

 「アンセルムス革命」以後の十二世紀の霊操史の展開を Cédric Giraud の Introduction によって見ておこう。
 十一世紀の「アンセルムス革命」からさまざまな霊操がその形を洗練させていく。十二世紀に入って、修道院において新たに練り直されたそれら霊操がキリスト教的な完徳へと至る道程を描き出している。
 その道程は、読誦(lecture)・瞑想(méditation)・祈り(prière)・観想(contemplation)という四つの階梯を経る。読誦において真理を見いだし、瞑想がその真理を内在化させ、祈りがその真理の成就を求め、最後に観想がその真理を味わわせる。
 読誦は、聖書と教父たちの著述がその主な糧であり、救済へと至る途上のすべての出来事に関わり、創世記から近年の教会史にまで渡る。
 瞑想は、人を変容させる力を持っている。というのも、一つの真理を絶えず思い返すことは、瞑想する者に深い感動を引き起こすからである。例えば、最後の審判を瞑想することは、畏れを抱かせ、キリストの受難は信頼へと導くはずである。
 祈りは、神や聖人たちに助けを求めることである。それは、内的変容の最終段階にまで至り、観想においてその変容を成就させるためである。
 霊的現実に注がれた内的眼差しである観想は、それぞれの著作家によってさまざまな形を取る。愛に満たされた神との合一という形を取ることもあれば、あらゆる感情や表象の彼方にまで魂を高めるという形になることもある。












心を神の探求へと向かわせる内観的療法としての〈祈り〉と〈瞑想〉

2019-11-02 09:29:51 | 哲学

 Écrits spirituels du Moyen Âge の 編訳者 Cédric Giraud による Introduction の続きを少し読んでみよう(この Introduction の縮約版と収録作品の抜粋集をこのリンク先で読むこともできるし、そのPDF版を無料でダウンロードすることもできる)。

  À la fin du XIe siècle, le moine Anselme de Cantorbéry, alors abbé du Bec, proposa un recueil original de compositions qu’il nomma Prières et méditations, un titre qui rapproche significativement deux exercices spirituels pratiqués de longue date par les chrétiens. Anselme détache prière et méditation de leur traditionnel support biblique et met ces exercices au service de l’introspection. Un nouveau rapport à soi s’invente alors, puisqu’à l’école d’Anselme l’homme apprend à rechercher Dieu au moyen d’un genre littéraire inédit, la méditation, une forme textuelle courte qui illumine l’intelligence tout en enflammant la sensibilité.

 Cédric Giraud は、カンタベリーのアンセルムスが『祈りと瞑想』(Prières et médiations)と題された文章集の作成によって中世キリスト教霊性史のなかで果たした決定的に重要な役割を強調する。アンセルムスは、祈りと瞑想というキリスト教に伝統的な霊操(exercices spirituels)を聖書から切り離し、内観(あるいは内省 introspection)の方法とした。それによって自己に対する新たな関係が創出された。つまり、瞑想(méditation)という新しい文学ジャンルの創始とともに、自己の内部における神の直接的な探求が始まったのである。
 この文学ジャンルとしての瞑想とは、短いテキストという形を取り、それが知性に光をもたらし、心に熱誠を宿らせる。このテキストを穏やかな精神状態で集中して読誦することが霊操としての瞑想なのである。
 私見では、この瞑想という文学ジャンルの創始は、中世キリスト教神学史における方法論的大転回であったばかりでなく、ヨーロッパ精神史全体にとっても画期的な企図であり、その衝撃は、哲学史における二十世紀の言語論的転回の衝撃をも上回るものではないかと思われる。
 Médiation の動詞形は méditer である。その語源的意味は、「治療を施す」という医学的な意味である。霊操としての médiation は、したがって、心を神へと向かわせる内観的療法と定義することができる。この内観法としての méditation が Monologion と Proslogion というアンセルムスの代表的な神学的著作を方法論的に準備した。












中世ヨーロッパの霊性文学の精華集

2019-11-01 18:54:29 | 読游摘録

 Écrits spirituels du Moyen Âge (Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 2019) の編訳者 Cédric Giraud による Introduction の最初の段落を読んでみよう。

 Dans l’imaginaire collectif contemporain, la culture occidentale semble difficilement s’accorder avec la spiritualité : le soleil grec de la métaphysique aurait tant brûlé les terres d’Occident que les sources spirituelles ne pourraient plus sourdre que dans l’Orient orthodoxe ou sur les rivages du Gange. Le divorce culturel entre rationalité et inspiration, institution et charisme, trouve sa traduction dans la désaffection contemporaine que rencontrent souvent les confessions chrétiennes dans les pays développés, au profit de formes variées de « développement personnel ». Les traditions chrétiennes se heurtent parfois au rejet suscité par les institutions ecclésiales, mais elles meurent tout autant, y compris au sein même des Églises, d’un oubli qui fait perdre de vue un héritage culturel pluriséculaire. La spiritualité médiévale n’échappe pas à cette évolution qui fait progressivement oublier tout un pan de la culture occidentale. À rebours de cette amnésie congédiant de la mémoire collective des références culturelles majeures, le présent volume entend faire lire de nouveau en français les chefs-d’œuvre de la spiritualité médiévale de langue latine.

 近代社会を合理性・公共性・普遍性をその成員たちによって共有されるべき価値の指標とする社会とするならば、それらの指標と「霊性」とが互いに馴染まない関係になるのは当然の帰結だと言える。その霊性が特定の宗教に固有のそれを指すとき、その宗教がたとえ「世界宗教」の一つであっても、近代社会の中にその霊性がそれとして「市民権」を得ることは難しい。その宗教組織の内部であっても、その組織が近代社会の指標に適応するために「近代化」しようとすれば、霊性を積極的には語らなくなるだろう。
 しかし、後期中世キリスト教世界に話を限るとして、十一世紀から十五世紀にかけて発展・深化し、さらには実践的な生活形式として具体化されていった霊性の歴史は、それ自体がヨーロッパのかけがえのない文化遺産である。自分たちの精神史を形成してきたその遺産が人々の記憶から次第に消されていこうとしている現代にあって、その集団的忘却に抗して、霊性史の初期から最後期にかけて書かれ、読誦され、書写され、広く伝播していった多数のラテン語作品の中から十五の傑作を選び、それらを美しいフランス語に訳した本書は、ヨーロッパの霊性文学の精華集として見事な成果である。