今朝、昨年まで九年間連続して大学院哲学科の夏期集中講義「現代哲学特殊演習②」を担当していた東洋大学の大学院教務課から来年度の担当依頼が届いた。今年度はコロナ禍で帰国そのものを諦めざるを得なかったので、集中講義も当然休講となった。その決定と同時に哲学科専攻長の河本英夫先生から「来年度はまたよろしく」とのメールを頂戴した。その時点では、一年後にはまあなんとかなっているだろうくらいにしか思っていなかった。ところが、感染状況が悪化しつつある現況からすると、来年度も開講できるかどうか怪しくなってきた。仮に帰国できたとしても、二週間の自己隔離が求められるのならば、それを見越して早めに帰国しなければならないが、それだけ余裕をもって帰国できるかどうかわからない。
東京オリンピックがもし開催されるとなると、それに重なる期間は大学での授業は一切できず、大学のイントラネットを使った配信授業等に切り替えなければならないと説明書類に書いてあった。ということは、例年のごとく七月末から八月初めにかけて演習を行うとすれば、帰国せずとも、遠隔でできるかも知れない。まだ教務課に問い合わせてはいないが、遠隔でもいいとなれば、これはこれで一つの試みとして面白いかも知れない。毎年、酷暑の中で五日間連続毎日三コマ四時間半という過酷な日程で演習を行ってきたが、それぞれ自宅から動かずに演習ができるとなれば、それはそれでありがたい。五日間に詰め込まなくてもよくなる。
講義内容は、お流れになった今年度の演習のシラバスをそのまま使ってもいいわけだから、準備もそれだけ楽になる。ただ、そのシラバスを読み直してみて、なんとなく気乗りがしない。今年の二月に準備を始めた段階では、こちらの修士の演習でも同じ主題を取り上げたのだが、その演習の途中で大学が閉鎖になり、演習そのものも中途半端なままに終わってしまい、その主題について継続的に考える機会を失った。そうこうするうちに日本での大学院の演習も休講になり、結果、問題を途中で放り出す格好になってしまった。だからこそ、来年度、ちゃんと取り上げ直すべきだとも思うのだが、ちょっと迷っている。ただ、シラバスの締め切りは一月十五日だから、もう少し考えてから決めよう。
もう一度テーマを見直すために、シラバスから「講義の目的・内容」を以下に転載しておく。
無根拠の哲学 ― 空の思想のアクチュアリティー
本演習は,西谷啓治の空の思想を無根拠の哲学として捉え,現代におけるその可能性について考察することをその目的とする.そのために西谷の主著の一つ『宗教とは何か』において展開されている空の思想を主な読解対象とする.
本演習は、以下のように四部から構成される。
まず、西谷独自の空の思想をナーガ―ジュルナに始まる中観派の空の思想の系譜の中に位置づける作業を行う.この系譜学的考察は,西谷の空の思想の特徴を後で浮かび上がらせるための準備作業として行われる。「縁起」と「諸法実相」を鍵概念として、古代インドでは「空」の否定的側面が強かったのに対して、中国・日本ではその肯定的側面が強調されるようになる空の思想史の展開と変遷を俯瞰的に辿り直す.
次に,『宗教とは何か』の中の空を主題としている四つの章,「虚無と空」「空の立場」「空と時」「空と歴史」の注解作業を行う.特に、「虚無と空」に提示されている「「空」とは、そこに於て我々が具体的な人間として、即ち人格のみならず身体をも含めた一個の人間として、如実に現成しているところであると同時に、我々を取巻くあらゆる事物が如実に現成しているところでもある」というテーゼの展開をテキストに即して見ていく。その上で,西谷啓治の空の思想の徹底性と先鋭性とを際立たせるために,西田幾多郎における絶対無の場所,和辻哲郎における空の哲学との比較検討をそれぞれ個別に行う.
そこから現代哲学へと問題場面を転じて,フランシスコ・ヴァレラらが『身体化された心』において展開したエナクティブ認知科学とナタリー・デプラズがヴァレラと共に開拓した経験の現象学とが開くパースペクティヴの中で,西谷の空の思想を現代の思想的状況への根本的な問題提起として考察する.特に,『身体化された心』の中で西谷啓治の空の思想の本質的な論点の一つとして言及されている realization の二重の意味 ―「理解」と「現実化」について、西谷がそれに対応する概念として「現成即會得」という表現を『宗教とは何か』の中で用いている箇所と照らし合わせながら詳しく検討する。
最後に,認知科学の知見に基づいた反実体主義の立場から,空の徹底した無根拠性と開放性によって開かれる基盤のない行為的連関の世界を積極的に捉え直し、その世界における倫理の可能性について検討する。