内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

来年度春学期大学院集中講義の依頼 ― 無根拠の哲学、あるいは空の思想のアクチュアリティー―

2020-12-22 22:47:52 | 哲学

 今朝、昨年まで九年間連続して大学院哲学科の夏期集中講義「現代哲学特殊演習②」を担当していた東洋大学の大学院教務課から来年度の担当依頼が届いた。今年度はコロナ禍で帰国そのものを諦めざるを得なかったので、集中講義も当然休講となった。その決定と同時に哲学科専攻長の河本英夫先生から「来年度はまたよろしく」とのメールを頂戴した。その時点では、一年後にはまあなんとかなっているだろうくらいにしか思っていなかった。ところが、感染状況が悪化しつつある現況からすると、来年度も開講できるかどうか怪しくなってきた。仮に帰国できたとしても、二週間の自己隔離が求められるのならば、それを見越して早めに帰国しなければならないが、それだけ余裕をもって帰国できるかどうかわからない。
 東京オリンピックがもし開催されるとなると、それに重なる期間は大学での授業は一切できず、大学のイントラネットを使った配信授業等に切り替えなければならないと説明書類に書いてあった。ということは、例年のごとく七月末から八月初めにかけて演習を行うとすれば、帰国せずとも、遠隔でできるかも知れない。まだ教務課に問い合わせてはいないが、遠隔でもいいとなれば、これはこれで一つの試みとして面白いかも知れない。毎年、酷暑の中で五日間連続毎日三コマ四時間半という過酷な日程で演習を行ってきたが、それぞれ自宅から動かずに演習ができるとなれば、それはそれでありがたい。五日間に詰め込まなくてもよくなる。
 講義内容は、お流れになった今年度の演習のシラバスをそのまま使ってもいいわけだから、準備もそれだけ楽になる。ただ、そのシラバスを読み直してみて、なんとなく気乗りがしない。今年の二月に準備を始めた段階では、こちらの修士の演習でも同じ主題を取り上げたのだが、その演習の途中で大学が閉鎖になり、演習そのものも中途半端なままに終わってしまい、その主題について継続的に考える機会を失った。そうこうするうちに日本での大学院の演習も休講になり、結果、問題を途中で放り出す格好になってしまった。だからこそ、来年度、ちゃんと取り上げ直すべきだとも思うのだが、ちょっと迷っている。ただ、シラバスの締め切りは一月十五日だから、もう少し考えてから決めよう。
 もう一度テーマを見直すために、シラバスから「講義の目的・内容」を以下に転載しておく。


無根拠の哲学 ― 空の思想のアクチュアリティー

 本演習は,西谷啓治の空の思想を無根拠の哲学として捉え,現代におけるその可能性について考察することをその目的とする.そのために西谷の主著の一つ『宗教とは何か』において展開されている空の思想を主な読解対象とする.
 本演習は、以下のように四部から構成される。
 まず、西谷独自の空の思想をナーガ―ジュルナに始まる中観派の空の思想の系譜の中に位置づける作業を行う.この系譜学的考察は,西谷の空の思想の特徴を後で浮かび上がらせるための準備作業として行われる。「縁起」と「諸法実相」を鍵概念として、古代インドでは「空」の否定的側面が強かったのに対して、中国・日本ではその肯定的側面が強調されるようになる空の思想史の展開と変遷を俯瞰的に辿り直す.
 次に,『宗教とは何か』の中の空を主題としている四つの章,「虚無と空」「空の立場」「空と時」「空と歴史」の注解作業を行う.特に、「虚無と空」に提示されている「「空」とは、そこに於て我々が具体的な人間として、即ち人格のみならず身体をも含めた一個の人間として、如実に現成しているところであると同時に、我々を取巻くあらゆる事物が如実に現成しているところでもある」というテーゼの展開をテキストに即して見ていく。その上で,西谷啓治の空の思想の徹底性と先鋭性とを際立たせるために,西田幾多郎における絶対無の場所,和辻哲郎における空の哲学との比較検討をそれぞれ個別に行う.
 そこから現代哲学へと問題場面を転じて,フランシスコ・ヴァレラらが『身体化された心』において展開したエナクティブ認知科学とナタリー・デプラズがヴァレラと共に開拓した経験の現象学とが開くパースペクティヴの中で,西谷の空の思想を現代の思想的状況への根本的な問題提起として考察する.特に,『身体化された心』の中で西谷啓治の空の思想の本質的な論点の一つとして言及されている realization の二重の意味 ―「理解」と「現実化」について、西谷がそれに対応する概念として「現成即會得」という表現を『宗教とは何か』の中で用いている箇所と照らし合わせながら詳しく検討する。
 最後に,認知科学の知見に基づいた反実体主義の立場から,空の徹底した無根拠性と開放性によって開かれる基盤のない行為的連関の世界を積極的に捉え直し、その世界における倫理の可能性について検討する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


天運の一陽来復はまだ遥か彼方に

2020-12-21 21:04:36 | 雑感

 今日は冬至。一陽来復。武部良明の『四字漢語辞典』(角川ソフィア文庫 2020年 初版1990年)によると、「冬が去って春が来ること。陰が終わって、陽が戻ってくる、という。悪いことが終わり、よいことに向かう場合にも用いる」。『世界大百科事典』には、「春の到来や凶事が去って吉事がふたたびもどって来ることをいう。この冬至の日,旧中国では仕事を休み,徹夜したり赤豆の粥を作ったり酒宴を設けたりして,万物のよみがえりを祝った」とある。
 『四字漢語辞典』には、参考として、『易経』から「此ニ至リ、七爻シテ一陽来リ復ル、乃チ天運ノ自然ナリ」が引かれている。「七爻」というのがよくわからないが、爻とは、易の卦の基本になっている二本の棒のこと。易を構成するもっとも基本的な単位で,卦はこれを六本積み重ねたものである。この二本の棒は、それぞれ積極的なものと消極的なもの,男性的なものと女性的なものといった事物の対立する二面を象徴する。七爻とは、陽と陰とが交互に入れ替わり、陽にまた復すことを意味するのだろうか。
 現実には、春まだ遠く、凶事が遠のいたどころではない。イギリス、オランダ、イタリアでは新型コロナ変異種が確認され、その感染力はこれまでのウイルスの七割増しだとイギリスのジョンソン首相は記者会見で述べている。致死率や重症化の度合いには違いは見られないとのことだが、感染の危険は大幅に高まるわけだから、さらなる警戒が必要なのは言うまでもない。フランスは、今日から丸二日間、英国からの陸・海・空路による渡航を禁止する。この措置で貨物トラックも仏側に渡れなくなった。こんなことで済むとは思えない。フランスでも同様な変異種が確認されれば、またまた外出禁止令が発令されるかも知れない。
 天運の自然に身を委ねるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


愛読は偏愛でしかありえない

2020-12-20 18:51:22 | 読游摘録

 性急な一般論は避けるとして、読書に話を限って言えば、博愛主義はきわめて困難であるばかりでなく、精神に有害でさえあるかも知れない。人はそうなんでも愛せるものではないないだろう。書物への愛に溢れた人もすべての書物を愛読することはできない。書物への愛があればこそ、唾棄すべき悪書の横行には憎悪を懐くこともあるだろう。
 古典に話を限るとしても、そのごく一部しか読めない。ましてや生涯かけて繰り返し愛読する古典となれば、せいぜい本棚一段に並べられるくらいのものではないだろうか。愛読とは、つまり、偏愛でしかありえない。広く多く愛読するということは、人間には土台できない相談なのだ。
 この意味での偏愛は、しかし、偏食とは違う。偏食を続ければ、たとえその食べ物が美味であり、栄養価の高いものであっても、いずれ体を損なう。ごくわずかの愛読書を繰り返し読むことはそれとは違う。それらの書は、読むたびごとに、その中に常に息づいている巨大な精神的エネルギーによって私たちの精神を活性化し、私たちの世界を日々脅かしている悪書の洪水から私たちの精神を守ってくれる。愛読は、悪書がばらまき続けている悪性ウイルスの感染から身を守る抗体を私たちの精神の中に形成する。
 前田英樹は『愛読の方法』の中で以下のように述べている。

古典をめぐる愛読者の系譜にみずから入り込むことほど、多くの人間が、孤独や絶望や嫉妬や怨恨から救われる道はないように思われる。愛読者の一人となることには、何の資格も条件もいらない。たくさんな資金も、やたらな知識も、豊富な経験さえもいらないと言える。本は向こうからやってきて、その人を選び、その人のなかに愛読者の魂を育て上げる。

 しかし、本当に向こうからやってきてくれるのだろうか。ただ待っているだけでは愛する人に出逢えないように、愛読書にも、やはり出逢いということがあると思う。古典なら必ず愛せるというものではない。生涯の愛読書に出逢えるということは、それだけでこの世に生を受けた者の幸福なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


冬休み計画表 ― 何を読むか、ではなくて、何を読まないか、それが問題だ

2020-12-19 23:59:59 | 雑感

 午前中、来年度九月からの日本への留学を希望している学生二人それぞれと学部国際交流課に提出する出願書類の最終確認のために個別ZOOM面談。これまですでに十数回同じ件で他の学生たちともZOOM面談しているが、本当に効率的に対応できてありがたい。必要があれば、書類を画面共有してその場で直に迅速に処理できる。こういう事務的処理は、全面的に対面授業に戻っても、オフィス・アワーが再開されても、遠隔を基本とすることになるだろう。私にとってだけでなく、学生たちにとっても、面談のためにわざわざ学科教員室まで来なくて済むし、要件のために必要とされる時間だけで事が済むのだから、いい事ずくめである。
 午後は、惚けた(古語では「ほうく」。中世以降に現れる語で、「ぼんやりする」あるいは「一つのことに夢中になる」の意)。アマゾンプライム、Netflix、GYAO ! などで見られるドラマ・映画をVPN経由で見続けた。昼からワインを飲んだ(禁断の美酒である)。かくして、今日から一月三日までの休暇中、毎日見惚ける危険なしとしない。
 これではいかん。月曜からは水泳も約二ヶ月ぶり再開する。なまった体を鍛え直す。しかし、それだけでは一日を充実させることはできない。そうだ、小学生の時のように、冬休みの計画表を作ろう。午前四時起床。七時まで読書と思索。七時から一時間水泳。八時から昼まで小論文添削。昼食。午後一時から六時まで読書と思索。夕食を取りながら、ドラマ・映画を鑑賞。十時には就寝。おお、素晴らしい計画だ(馬鹿なの?)。
 ところで、冬休み中に何を読むか、なのであるが、これが実に悩ましい問いなのである。読みたい本リストを前に溜息をついている。あまりにも長いのである。前田英樹の『愛読の方法』の訓えからは遠く隔たってしまっている。でもねぇ、無理っすよ。古典中の古典に限ったって、今後数十年かけても(えっ、そんなに生きるつもりなの?)とても読みきれない数の本があるのですから。何を読むかではなくて、何を読まないか、断腸の思いで決断しなくてはならない。しかも即決しなければ。さもないと、悩んでいるうちに冬休みが終わってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学生たちの努力に敬意を払い、その努力と釣り合うだけの体力と脳力を使って真剣に答案を読む

2020-12-18 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の二つの遠隔試験も無事終了いたしました。これで前期に担当した三つの授業の試験はすべて終了しました。でも、まだほっとするわけにはいきません。三つの試験の答案の採点とこれから年内に届く宿題の小論文の添削とが残っているからです。答案と小論文を合わせると約二百枚になります。すべて小論文ですので、読むのに時間がかかり、しかも、採点するだけではなく一枚一枚にコメントを付けていきますので、一日二十枚が限度です。それ以上やろうとすると、脳の機能が急速に低下し、結果、効率も悪くなってしまうからです。
 試験はもっと採点が簡単な問題形式にすればこちらの負担は減ります。宿題として小論文を課さなければそれだけ楽ができます。しかし、そういう出題はしたくないし、小論文を書かせる訓練は継続して行いたいのです。一つの問題について、時間をかけて調べ、何度も考え、その過程を通じて自分の考えを少しずつ練り上げていくという忍耐と集中力を必要とする作業を学生たちに一年間継続してほしいからです。
 今回も、試験準備に二週間を必要とする超重量級の問題を課しました。彼らはそれに真剣に答えてくれました。ですから、採点する教師の側もその努力に敬意を払い、その努力と釣り合うだけの体力と脳力を使って真剣に答案を読み、厳正に採点するのは当然のことだと私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


予断は許されないが、希望を持つことを禁じられているわけではない

2020-12-17 23:59:59 | 講義の余白から

 明日、私が金曜日に担当している二コマの授業の前期期末試験があります。その前日である今日木曜になって、ある学生から悲痛な叫びのようなメールが届きました。その女子学生はとても真面目で、成績も申し分ありません。宿題の小論文でもよく考えられた文章を毎回提出しています。
 今週は試験が続き、その準備にそれこそ朝から晩まで机に向かっているのに、どうしても集中力が続かず、思うように勉強が捗らない。明日の二つの試験のうち、「近代日本の歴史と社会」の準備に全力を傾注している。もう一つのメディア・リテラシーの方まではもうとても手が回らない。後者だけ、来週か年明けに試験を延期することはできませんか。
 およそそういう文面でした。このような苦境に置かれているのは、おそらく彼女だけではないでしょう。「近代日本の歴史と社会」の試験問題は、他のすべての試験勉強を擲たなければ太刀打ちできないほどの超重量級の問題ですから、学生たちも選択を迫られます。この科目を捨てて、他の科目に集中する学生がいたとしても、それはそれで一つの賢明な選択だと言えるでしょう。それは彼らの自由です。
 15日には外出禁止令も解除され、夜間外出禁止令がそれに取って代わりましたが、試験が続く学生たちにとっては、そんなことは何の助けにもならず、外出禁止令下と同様、家に閉じこもって試験勉強をこの二週間ほど続けてきています。この時期、試験が集中するのは毎年のことですが、今年の場合、11月以降、授業は遠隔のまま終了し、そのまま年内の試験はすべて遠隔ですから、その間にストレスも溜まり、それが集中力低下を引き起こす要因にもなっていることは容易に想像できます。テキトーにできない学生ほど苦しみは大きい。
 とはいえ、さすがに今さら試験を延期するわけにはいきません。そこで、どうしても明日の試験のうちの一つの受験が無理なら、後日別途に答案を提出してもよいと返事しました。今年度から追試が廃止され、学生たちにはそれに代わる「第二のチャンス」を与えることが新評価システムの条項の中に明記されており、私の提案は、その枠内に収まり、例外的な特別措置というわけでもありません。
 ストレスに耐えて勉強をする精神的耐性を身につけることも大切です。あるいは、ストレスを溜めないようにする日々の工夫も必要です。しかし、今年は、コロナ禍に因る外出禁止令と遠隔授業への全面的移行という未曾有の事態に二回も見舞われ、学生たちのメンタルも相当に疲弊していることは否めません。ここは激励の意味も込めて柔軟な対応をすべきと判断しました。
 来月、第三週から始まる後期は、どうやら最初から対面でできることが今日の大学当局からの通達でわかりました。もちろん、予断は許されません。しかし、希望を持つことが禁じられているわけではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


論文作成という長距離走の伴走者あるいは給水係として

2020-12-16 23:59:59 | 講義の余白から

 二十学科を擁する本学言語学部の中で、学部修士合わせて二百六七十名の学生をかかえるわが日本学科は、学生数では堂々学部第三位である。それに対して、専任はわずかに五名、教授一名、准教授四名。その他に、契約講師が四名、それでも足りないので、四名の非常勤をお願いしている。
 学生数を専任の数で割ると、一教員当たり五十名以上の学生の面倒を見なくてはならないことになる。これはドイツ語学科の四倍以上である。にもかかわらず、特別手当など一切つかない。学部では、授業に関しては、契約講師と非常勤の方たちが果たしてくれている仕事量が多く、専任は自分の担当授業の外、その他の責任を分担している。
 ところが、修士の教育指導は、ごく一部を除いて、専任のみで行っている。修士の学生数は、登録上は三十名以上になるが、演習に出席しているのは、その半分強である。毎年、修士一年生の論文指導担当を決めるとき、担当学生数が不公平にならないように配慮するので、自分の専門とはほとんど関係のないテーマを希望している学生の指導を引き受けざるを得ないことが多い。
 私の場合、現在担当している学生たちのテーマは以下の通り。近世初期の京都町衆の機能、時枝誠記の言語過程説とルシアン・テニエールの構造統語論の比較研究、十七世紀における対馬藩の外交史、特攻隊員の記憶と記録、ヴァーチャル世界の生態系、江戸前期の寺子屋教育の事例研究。その他にもあるのだが、それらは、登録はしてあっても、学生本人が論文作成をほとんど放棄している状態なので、数には入れていない。
 これらのテーマの間に、共通点など、ない。分野もばらばら。時代としては近世が多いのは、単に他に引き受け手がいないからに過ぎない。
 それでも、対馬藩の研究は、私が学生に強く勧めたテーマで、本人も熱心に研究を継続している。来年度の九大への留学が決まっており、その留学が実りあるものになるように、今から準備している。時枝・テニエールも、私が学生に「やれっ」と発破をかけた。この研究は、成就すれば、間違いなくいい論文になる。特攻隊員の記録と記憶は、学生本人が希望したテーマで、修士一年のときはまだ漠然とした問題意識だったのだが、昨年度一年間学習院に留学している間に、知覧特攻平和会館などゆかりのある土地を訪れ、資料収集に努め、かなり問題意識が明確になってきた。
 ちゃんとした研究をするためには、それぞれの分野の専門家の指導を受けるべきである。それは言うまでもない。しかし、それは弊学科で願ってもほとんど叶わないことである。そもそも私などが指導などとはおこがましい話であることは重々承知している。
 論文作成は、いわば長距離走である。途中、苦しくて、息が切れそうになることも珍しくない。その伴走者として、あるいは給水係として、完成というゴールまで付き合う。せめてそれくらいはしてあげたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一日の終わりに負のエネルギーを正のエネルギーに転換してくれた文章

2020-12-15 23:59:59 | 雑感

 なんと言いますか、今、とっても複雑な、というか、やれやれ困ったもんだという溜息と、授業やったかいがあったものだという嬉しさとが交じり合って、心の中が掻き回されています。
 一方で、なんでこうなるのよ、と言いたくなるような前代未聞のやっかいな事態に見舞われており、それへの対処のための準備に追われています。他方で、今さっきのことですが、ある学生が締め切り一週間以上前に提出してきた日本語小論文を読んで、それがちょっと感動してしまうくらいいい文章だったのです。
 前者に関しては、明らかに、私の対応のまずさが主要な要因の一つで、事態を複雑化してしまっています。詳細は申し上げられませんが、相手の術中にはまったというのが、まさに今、私が(というか、学科が)置かれている現況です。傍から見れば、それは、まことにバカバカしいとしか言いようのないことなのです。信じがたくバカバカしいのです。そのバカバカしいことに本気になっている相手によって振り回されています。これはかなりシュールな状況です。
 でも、妙に感心してしまっている自分もいるのです。たった一人の人間がここまで組織の運営を乱せるものなのだなあ、すごい負のエネルギーだなあと。それを正のエネルギーに転換してくれたら、学科の運営は快適以上のものになるのになあと溜息交じりではありますが。
 他方、いい文章というのは、「千年以上も前に詠まれた和歌が、今も私たちを、しかも国を超えて、感動させるのは、なぜでしょうか」という課題に対する回答として書かれた文章でした。それは、日本語としてよく書けているというのとはちょっと違って(不器用なところも可愛らしい間違いもいくつかあります)、和歌に対する本人の真率な感情がよく伝わってくる文章だったのです。万葉集の名歌中の名歌「渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今晚乃月夜 清明己曽」(「海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ」)をこの通り万葉仮名のまま引き、鑑賞を述べています。それは本当にこの歌が好きなのだなあということが読んでいるこちらにもよく伝わってくる文章で、稚拙ではあっても、借りものではない言葉で綴られていました。
 一日の終わりに一つの気持ちのよい文章を読めたことを、それを書いてくれた学生に私は感謝しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「日本の文明と文化」前期期末試験 ― 触覚と倫理の関係を問う

2020-12-14 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は、「日本の文明と文化」の前期期末試験でした。試験問題は、二週間前に予め渡しておいたテキスト、伊藤亜紗『手の倫理』の序の読解を前提とした、次のような問いでした。

伊藤亜紗が言うように「さわる」と「ふれる」を区別するときに見えてくる世界における触覚と倫理の関係について、具体的な例を挙げながら、あなた自身の考えを述べてください。

 十数ページのテキストをどこまで読み込めているかが評価のポイントの一つになります。明らかにテキストを無視して、あるいは理解せずに自説をぶっているだけの答案には、たとえその中に優れた見解が含まれていたとしても、合格点はあげません。こちらの指示を無視しているからです。
 こういう問題を出すと、必ずある答案のタイプの一つは、辞書的な定義を示すことから始めるものです。ここを読んだだけで、この学生はテキストがよく理解できなかったから、一般的な定義をそれに置き換えようとしていることがわかり、それで字数稼ぎをしようとしているだけなので、まず合格点は望めません。
 他方、テキストを要約しているだけの答案も不合格です。それは絶対に駄目だと二週間前に念を押しておいたので、この手の答案はさすがにほとんどありませんでした。
 辞書持ち込み可としたので、日本語の間違いも厳しく採点します。たとえ内容に見どころがあっても、初歩的なミスが目立つ答案はやはり不合格です。
 字数は1000から1200字。それより少なくても多くても減点すると言ってあったので、これはほぼ全員きっちり守っていました。
 二十七枚の答案をざっと一読しただけですが、日本語作文力、小論文構成力、概念的思考能力の差は歴然としており、20点満点で採点するとして、おそらく、最高点は18点、最低点は6点になるのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


他性を宿命的に内在化させている言語としての日本語

2020-12-13 00:00:00 | 日本語について

 この研究の結果から日本語の特異性としてどのようなことが言えるか。昨日の記事で話題にした修士論文を書いた学生に、論文作成中、何度かこう問うた。結局、この問い対する十分な回答は得られないままに終わってしまった。言語現象の表層の分析にとどまったままだった。
 私の考えでは、しかし、ライトノベルに典型的に見られるような一見自由な当て字や振り仮名(というよりも本文脇の並行表記)は、日本語にとっての漢字の本来的な他性・異質性・自律性に由来する。外来の漢字を使わずにはまともな文章を構成することがほぼ不可能なまでに他性を内在化させた言語が日本語なのだ。漢字は、それ自体で、日本語文法と日本語としての常用の読みとは独立に、意味することができてしまう。だからこそ、日本語として慣用的に充てられている通常の読みとは異なる読み(というよりも付加的なシニフィアン)をその脇に並行表記することができるのだ。
 一見して自由の行使に見える振り仮名的並行表記は、日本語の書き言葉は漢字なしには機能不全に陥るという不可避的な拘束が可能にしている結果の一つに過ぎない。振り仮名表記の自由性は、日本語表記の豊かな表現的可能性の現われというよりも、他性としての漢字の拘束から逃れることはできないという日本語の宿命の顕然化なのだ。あるいは、通常の日本語表記が抑圧している他性が並行表記によってその抑圧から解放されていると言ってもよい。しかも、そのことにおそらくライトノベルの作家たちは気づいておらず、標準的な表記から自由になって並行表記を行っているつもりだろう。
 こんなことを論文審査のための講評を書きながら考えているとき、前田英樹が『愛読の方法』の中で次のように述べている箇所に行き当たり、私はとても共感した。

 母語とは根本から異なる言語の文字表記を、母語の表記に用いた日本の古代人は、一方では、公式の文書を漢文で書き、これを訓読した。しかし、他方では、決して漢文に置き換えるわけにはいかない歌や物語や神さまに述べる言葉を、独自の漢字表記を発明して書いた。なぜ、置き換えるわけにはいかなかったのか。訓読される漠文という公式言語に移せば死んでしまう生の曲率が、言葉の運動それ自体としてあったからである。国学者たちの仕事を、深く、止むことなく導いたのは、この直観だった。
 この直観は、彼らを実に遠いところまで、あまりにも遠いところまで導いていったと言える。漢字、漢文という、外国の文字で書かれるものへの抵抗は、やがて文字がもたらす語の諸区分すべてへの疑い、批判、あるいは否定に育った。言葉は、ばらばらに分解できる語の集まりとして意味を構成するのではない。言葉は、生の曲率を顕わしながら繰り延べられていくひとつの運動である。そこに生じては流れ去っていく独特の姿は、律動は、文字にはない。といって、あれこれの声に宿るのでもない。それらのものすべての向う側に、言葉という魂の運動それ自体として在るのだ。万葉歌人は、それをこそ「言霊」と呼んだのではないか。