こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年9月21日 土曜日・深夜 ランダム・ノート

2013-09-22 02:25:07 | 雑記帳

行く当てもなく・街をふらふらしていた頃。
1985年~86年あたりの、電車中継箇所となるキー駅前の溜まり場には、「手相を見せてください。勉強をしているので。」と言った者が必ず居た。

当時、素浪人のじぶんは、ついつい相手が女の子(今で言う女子力だかエロ力だか・・)に下心丸見えで拉致されて、手相→話し合い→事務所で見てもらいたいモノがある→事務所で紅茶を飲みながらビデオを見させられる→映像には「この混迷を極める時代。。。(中間カット)。。。それを解決するのが、この24巻ビデオテープセットです」→拒否して帰るが、その記録が闇ルートに流れ→勧誘電話のヤマとなり、ブチ切れる→相手「今から行ったるわ!」/自分「来いや。来てみいや。」

それは、別の場面では、エセ環境/エコブームだったり、ラッセンのリトグラフを売るギャラリーの外見を成した詐欺キャバギャラリーだったり。。。
向かい合って話しながら、ミニスカ&デルタ地帯(痴態)を見せつつ、数十万のリトグラフを売り付ける。

結果、サリン事件に繋がる。この流れは、一宗教団体だったオウムのみとしているが、実はそうでは無いことは、すでに証拠物件含めて・事実として明らかだが。
これも、すけーぷごーとの一つ。

***

じぶんが「じぶんはキチガイではないのか?」なる発露は、実は10代最期の場面ではなくて、3歳の頃には、その予感・悩みを持っていた。
10代最期の場面で、アリ地獄の精神で神保町を迷走しながら、苦しさの根拠と回答を求めて、買って読み漁った心理学・精神医学の本の中の定番記載を、40代後半の今のじぶんは認めない。

「ヒトの性格と生き方は3歳までの経験で全て決定する。」
「DNAが9割を支配し決定を行うので、その後、いくら生きようと、その者がいくら努力しようと、航路を変えられるのは、たった1割にも満たない。」

反論の一例を挙げれば、三島由紀夫はどうなのだ?
あれほどまでに、ひどい環境下で産まれ生きてしまったスタート地点は、その後に大きな影を落としたとしても、じゃあ、彼と同じ境遇の者が、あれだけのことを45年で成しえたのか?
いくら読書や自己防衛策を練ったとしても、彼が日々起きる「世間」の事柄に発し続けた瞬時の文章に込められた判断と視点のウィットさを、どう説明出来るか?大半の者が、一生精神病院暮らしで終わっていることだろうに。
それを「1割」では説明が付かない。

過去の精神医学の幼稚さは、植物(にも実は当てはまらないのだが)根がおかしいモノは、その後の努力では花も実も付かない、と説明していた。
じゃあ、かつて紹介したオリズルランは、どう説明するのか?例外で処理するのか?

生き物が生きているのは、その瞬間・瞬間である。
それを、大地の「関東ろーむ層」では無いが、ひたすら日々蓄積された上に今日の「いま」がある、という理屈を、今では信じていない。否定するしかないから「信じていない」のではない。

3・11後、さかんに「想定内」「想定外」と言った乱暴な言葉が使われた。
この言語も、同じ思想に属する。1秒後のことを、誰が想定と判断しうるか?
ただのダマシに過ぎないことを、3・11後2年半経ったから、言えるのだが。

まさに「想定外」で、いきなり急激に、肉体が堕ち転がり続けるお袋を囲み、今日も兄夫婦と一同集まった。
さまざまな(今ここで)単純表現し得ないモノが渦巻いているが、家族が一緒に、共に話し・笑い・酒を呑み・兄が最近毎度見せてくれる、DVDに焼いた過去の映画やドラマをみんなで見る。
今夜は、寅さんの映画「男はつらいよ」シリーズ。そして、渥美清さんから最終作でやっと許可が下りた、映画「男はつらいよ」以外での顔とインタビュー。
(こないだは、勝新太郎のかっこ良い映画「座頭市」に、みんなで唸っていた。)

日々、くだらないとしか言えないニュースやテレビや事象などに左右され、つまらない人生をムダにするならば、こんなステキな時間を逃がしてはならない。
馬鹿にしか出来ないリアルタイムの「ただのたわむれ」に誘導されるのを拒否した家族は、素晴らしき先人たちの残してくれた作品と、一部の今生きる俳優たちの在り方を見る。

じぶんが盛んにとり上げる大竹伸朗さん。
彼の創った制作物全てを、素晴らしいとは思っていない。
むしろ、作品よりも、彼の生き様・在り方に惹かれている。
それは、画家として否定された者の怒りが、どこまで行けるかの挑発と挑戦と受け止める。

イーノは生き様も音楽も素晴らしいが、交通事故で死に掛けたことによって獲得した神の間(ま)。ミュージシャンと呼ばれることを、拒否し続けたイーノ。
イーノのキレ味が鋭かった季節は、じぶんが中学生して出会った「あの頃」に収斂される。

精神病院で過ごす兄弟と同じDNAを持ち、ケンカで片目の視力を失い・ドラッグ漬けになりながら、そこすら脱して変化(へんげ)していったデヴィッド・ボウイ自身が辿った道しかり、産まれながら病弱で死に掛けながら生き延びたジョン・ライドンの道しかり、われわれは、それぞれの立ち位置で負ってしまった「欠落感」や幻聴を如何にしていさめ・超えて行くか?
「生きてて何の意味があるんだい」と聴こえる幻聴との格闘と、それを超えようとするエネルギーには、幼稚な精神医学三段論法は吹き飛ぶ。

***

とある駅前で、唐突な撹乱させる質問「お前は、一体何のために産まれて、何のためにいきているんだい?」
今では、それに答える自信がある。
過去に、20代の手相見の坊主にあえて巻き込まれたフリをして、途中から「にいちゃん。そんな宗教とは別に、オレにも独自の宗教があってイイんだよ。お前にイイ宗教を教えて・救ってやるから、こっち来い。」とニヤリと肩を組み、首根っこ掴まえて拉致しようとしたら、恐怖におののいた彼は本気で疾走して逃げた。
たぶん、やっぱり「こいつはキチガイだ」と思われたのだろう。

今夜は、大好きな寅さん≠渥美清を視て、改めてさまざな感情が涌いた夜だった。
理屈も脈絡も一貫性も、もう要らない。

「男はつらいよ」より

渥美清の伝言
コメント
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